政党として生き残れるのか――最大危機の社民党 77年間の栄枯盛衰と参院選への秘策
村山政権で「自衛隊は合憲」
村山氏はここで大きな決断をする。国会で「日の丸、君が代を認める」「日米安保体制は不可欠」「自衛隊は合憲」と表明したのだ。社会党の政策の大転換だった。 これに党内は混乱。長年の支持者からは「変節だ」との声が上がり、離れていく人も多かった。一方、前出の田中氏は次のように村山氏を評価する。 「自社さ政権ができる前、村山さんが私を訪ねてきて『日の丸と君が代を認めようと思ってます』と言いました。それがあって自社さ政権は社会党転換のまたとない機会になったと言えます。それから日米安保や自衛隊の合憲は、首相の村山さんが個人の責任で認めた。全ての批判を自分が引き受けた。立派な人だと思います」
社会党から社民党へ
社会党に逆風が吹く中で迎えた95年7月の参院選は、55年の再統一後、最低となる16議席にとどまった。村山内閣は96年1月に総辞職し、橋本龍太郎連立内閣が発足する。社会党は連立にとどまるも、直後の党大会で党名を社会民主党に変更。半世紀におよぶ歴史をひとまず閉じた。 「世界が大きく変わっているのに社会党はイデオロギーの対立を繰り返しているばかりだった」 当時、同党の参院議員だった藁科満治氏は振り返る。新しい党名を社民党にしたのは、ドイツの社民党などを参考に、「政権交代を主目的とする政党になる」という思いがこめられていたという。
当初、社民党の国会議員は全て、連合を支持基盤とする新党(旧民主党)に移る予定だった。しかし、96年9月に鳩山由紀夫氏が中心となって新党を創設するも、約半数は社民党に残った。直後の衆院選は、党首に土井氏が復帰して挑んだが、15議席と惨敗した。この選挙から「少数政党に不利」といわれる小選挙区制が導入され、党の低迷が続くことになる。 土井氏に対しては北朝鮮による拉致問題の存在を否定してきたことへの批判も強く、2003年の衆院選では小選挙区で初めて敗れた。比例復活はしたものの土井氏は党首を辞任。新しい党首に福島瑞穂参院議員が選ばれた。