政党として生き残れるのか――最大危機の社民党 77年間の栄枯盛衰と参院選への秘策
細川連立政権で与党入り
そんな社会党を横目に、続々と新党が誕生し注目を集める。92年の参院選で4議席を獲得した細川護熙氏率いる日本新党に続き、翌年には政治改革をめぐって自民党から飛び出した羽田孜氏や小沢一郎氏らが新生党を、武村正義氏らが新党さきがけを創設した。「新党ブーム」と言われた。 93年の衆院選で自民党が過半数を割ると、細川氏を首相とする8党会派の連立政権が誕生した。自民党一党支配だった55年体制の終焉で、この細川政権に社会党も加わった。
「社会党はこの衆院選で議席を半減させて70議席になった。選挙の反省や政策の練り直しが必要なのに、気づいたら政権に入っていた。何の覚悟もないまま与党になってしまった」 元社会党の衆院議員で、民主党の幹事長などを務めた大畠章宏氏は振り返る。 社会党の連立政権入りは、「終わりの始まり」ともいわれる。細川政権においてそれでも社会党は最大勢力だったが、総理大臣は細川氏、官房長官は武村氏、副総理兼外務大臣は羽田氏と主要ポストは他党が占めた。 さらに、新生党の小沢氏と公明党の市川雄一氏による「一・一ライン」が政権運営での重要な決定をしており、社会党はいわば“蚊帳の外”だった。 以前であれば、野党として自民党を厳しく追及することもできたが、与党ではそれもできない。存在感の低下は避けられなかった。
ライバル自民党と手を組む
94年4月、細川内閣が佐川急便からの借り入れ問題で倒れると、社会党は次の羽田内閣には加わらず、連立からいったん離脱する。そこから自民党と組んで政権を奪取するという驚くべき展開となる。 「自民党にとっては政権を奪還することが大事で、当時の情勢では社会党と組む以外になかった。森喜朗さんらが発案して動き出し、それに我々も同調しました」(前出の山崎氏)
当時、自民党の衆院6回生で存在感を見せていた亀井静香氏は、警察官僚時代から親交のあった社会党の野坂浩賢国対委員長と連立に向けた話し合いを水面下で進めた。若手議員も同様で、政治改革の一つとして「腐敗防止法」の成立を目指す動きの中で、前出の伊東氏は自民党の白川勝彦衆院議員らと議論を重ねる。 「それまで自民党を『金権体質』といったレッテルで見ていて、社会党とは水と油だと思っていました。でも、実際に議論していくとむしろ理解してくれる人が多かった。そして、『リベラル政権を創る会』というのができました」(伊東氏) この創る会は、社会党の村山富市委員長を首相にし、自社で連立を組むことを目指した。自民党から64名、社会党から13名が参加したが、自民の中には岸田文雄首相や安倍晋三元首相もいた。 94年6月、羽田内閣に代わり、自民・社会・新党さきがけの連立政権が実現。村山氏が第81代の首相に選出された。社会党委員長を首相とする内閣は46年ぶりだった。