政党として生き残れるのか――最大危機の社民党 77年間の栄枯盛衰と参院選への秘策
自民党で幹事長などの要職を歴任した山崎拓氏はこう語る。 「社会党は護憲に加え、弱者の味方という立場で必要な存在だったと思います。国民からまとまった支持を得ていた。僕はなんでも反対する党だと思ったことはない」 自民党の憲法9条改正を許さなかった社会党。86年には党内公選を経て、土井たか子氏が第10代委員長に就任し、日本の憲政史上初の女性党首となった。
土井たか子旋風「山が動いた」
勢いづく社会党に対し、ライバルの自民党は窮地に立たされていた。リクルート事件や消費税の導入で支持率が急降下。さらに同事件で首相を辞任した竹下登氏の後継に宇野宗佑氏が選ばれるも、女性スキャンダルが報じられる。 元号が平成に代わり、最初の国政選挙となった89年の参院選。土井氏は女性候補を積極的に擁立し、自民党の36議席を上回る46議席を獲得した。マドンナ旋風とも呼ばれ、土井氏は「山が動いた」と語った。参議院で自民党が過半数を割る「ねじれ国会」になった。 翌年の衆院選でも勢いは続き、社会党は53議席増やして136議席を獲得する。当時、札幌で弁護士をしていた伊東秀子氏は、土井氏の熱烈な要請を受けて衆院選に立候補。全国最多となる26万票を獲得し、初当選した。 「社会党が一番輝いていた頃でしょうね。私のように政治家と関係なく普通に生活していた人が議員になるというのも珍しかったでしょう。それだけ社会党に勢いがありました」
だが、絶頂期は短かった。自民党はクリーンなイメージをもつ海部俊樹氏が宇野氏の後継総理となり、支持率を回復させる。91年の統一地方選で社会党は惨敗し、土井氏は委員長辞任に追い込まれた。93年の衆院選でも70議席と前回から半減させてしまう。 社会党の不振の要因に「野党に甘んじる体質」が挙げられる。当時の衆院選は中選挙区制で、一つの選挙区で原則3人から5人の議員が選出される。政権を取るには各選挙区で多くの候補者を擁立し、当選者を増やす必要があった。 しかし社会党は、現職が自分の当選を最優先し、もう一人擁立することに対しては「票が割れる」として反対するケースが続いた。実際、136人が当選した90年の衆院選でも、候補者は149人にとどまっている。当時の定数は512。「万年野党体質」「政権を獲る気がない」と見切りをつける支援者が年々増えていった。