「あいつを怒らせたら、手がつけられん」打倒・九州の速球王へ燃えた1983年夏 還暦前の元高校球児が語り合った博多の夜
発起人は山田武史さん「福岡・昭和40年会」
昭和55年度生まれの「松坂世代」が世に知れ渡る前のプロ野球界では「昭和40年会」が有名だった。名球会入りした古田敦也、山本昌(本名・昌広)をはじめ、渡辺久信ら多くのスター選手を輩出。いずれ劣らぬ顔ぶれの中に「九州の速球王」と呼ばれた快速右腕がいる。久留米商(福岡)のエースとして1983年夏の甲子園でベスト4へ導いた山田武史(59)だ。(文中敬称略) ■「福岡・昭和40年会」参加メンバーと近況【一覧】
師走のある日。福岡市の焼き鳥屋に、還暦を前にした男たちが集まった。会の名は「福岡・昭和40年会」―。発起人は山田だった。一年に一度「高校野球」を酒の肴(さかな)に語り合いたい。そんな思いから昨年、7人で始まった。今年は12人が参加した。遅れてやって来た男性が「ごめん、ごめん」と着座すると、山田が声を張り上げた。「おー、タカユキ! 待っとったぞ!」。村上隆行だ。ソフトバンクの1軍打撃コーチ。山田がかつて5年間プレーしたプロの世界で、今もユニホームを着て戦っている。 83年春の選抜大会で甲子園デビューを果たした山田は初戦で、のちに広島入りする剛腕の秋村謙宏を擁した宇部商(山口)を完封。右脚の股関節付近に痛みを抱えながら、13三振を奪った。82年夏に続き、この選抜大会も制する池田(徳島)の名将、蔦文也監督(当時)は、秋村に2―0で投げ勝った山田の投球をバックネット裏で観戦。「うちの水野雄仁よりもいい投手」と、うなったという。こうして一躍全国区となった山田を攻略しない限り、甲子園にはたどり着けない。「打倒・山田」を掲げた福岡県のライバルの筆頭が、大牟田のエースで4番打者の村上だった。
「山田を打つにはどうしたらいいと?」
2人は同じ筑後地区の学校で実力を認め合った。高校2年の冬、村上と大牟田の捕手が久留米商に出向いて、1週間合同で練習する機会があった。村上は久留米市内の山田の自宅に泊まるなど親睦を深めた。いい機会だからと、村上は山田とバッテリーを組む捕手の山口幸夫にこっそりと尋ねた。「山田を打つにはどうしたらいいと?」。山口は正直に答えた。「そりゃあ、怒らせんこったい。あいつを怒らせたら、手がつけられんけん」。 この言葉を証明するピッチングを見せたことが3年夏の福岡大会でもあった。ある試合で不調だった山田の投球を、次に対戦する高校の関係者がスタンドで観戦。「山田は大したことなか」と口にしたところ、それを伝え聞いた山田の反骨心が涌いた。「見とけよ。黙らせちゃるけん」と完封。山口は「甲子園での宇部商戦と、その試合が彼のベストピッチ」と振り返る。 山口によると、山田の最速は143キロで、球種は真っすぐとカーブの2種類だった。「その二つをインコースとアウトコースに投げ分けるだけ。だからサインは全部で四つしかなかった。でも、あの真っすぐはモノが違った。バッターは分かっとっても『着払い』しとったから」。当時は身長178センチ、体重66キロ。細身の体をしならせたフォームから繰り出すスピンの効いたストレートは、打者の手元で浮き上がるような軌道を描いた。ボールが捕手のミットに収まってから打者がバットを振ることも珍しくなかった。