「あいつを怒らせたら、手がつけられん」打倒・九州の速球王へ燃えた1983年夏 還暦前の元高校球児が語り合った博多の夜
「嫌な感じ」進学校のダークホース
「県内の打者で意識しとったのは大牟田の村上。練習試合も含めて数えるほどしか当たっていないし、そこまで打たれた記憶はないけど、気になっとった。あとは東海大五(現東海大福岡)で4番の広瀬健一。この2人やったね。あと、チームでちょっと嫌な感じがあったのが福高やった」。山田も福岡には、やや苦手意識があった。前年82年夏の福岡大会3回戦では、土砂降りの雨の中で9―7の辛勝。新チームになった直後、選抜大会につながる秋の公式戦でも2―2で引き分け再試合の末の勝利だったからだ。 福岡の主戦だった松永嘉伸は「久商(久留米商)には失礼やけど、怖いのは投打で大黒柱だった山田だけ。ロースコアの展開に持ち込めば、勝てん相手じゃない」と可能性を感じ取っていた。それでも壁は厚く、高かった。大会中に虫垂炎に見舞われ、痛み止めの注射を打ち、マウンドに上がっていた山田を打ち崩せずに決勝は完敗。2点を奪うのが精いっぱいだった。 春夏連続で乗り込んだ甲子園でも、山田は体調が完全に戻らないまま投げ続けた。小松明峰(石川)、ヤクルトで通算304本塁打の池山隆寛がいた市尼崎(兵庫)、岐阜第一を倒して準決勝に進出。65年夏の三池工以来、福岡勢18年ぶりとなる深紅の大旗も視界に入っていたが、満身創痍(そうい)の心身は限界だった。横浜商(神奈川)に完敗して、力尽きた。
満身創痍「本当にかわいそうやった」
「山田は本当にかわいそうやった。『あいつの力はこんなもんやない』と…。いたたまれんかった」。山田の隣のテーブルでぽつりとつぶやいたのは、九産大九州で背番号「1」をつけた白数(しらす)秀樹だ。195センチの長身から投げ下ろす真っすぐが武器。188センチの長身捕手とのコンビで「日本一でっかいバッテリー」として話題になっていた。県内では群を抜いていた山田の実力を知るからこその言葉だった。 「プロで思い切り投げ込む、あいつの姿を見たかったな」。そうつぶやいたのは福岡第一の一番ケ瀬(いちばかせ)尚だった。久留米市の牟田山中では山田とバッテリーを組むなど気心の知れた仲。「(中学では)7回で21個のアウトのうち19三振を奪ったことがある。ボールが前に飛ばんけん、野手が暇やった。三振の山って、こういうことなんやなと感じながら、球を受けた」。 山田は社会人を経て飛び込んだプロの世界でも故障との闘いを強いられた。巨人、ダイエー(現ソフトバンク)で通算30試合に登板して0勝1敗、防御率4.89。未勝利のまま、91年限りで現役を引退した。それでも高校時代の鮮烈なインパクトは同じ時を過ごした球友の脳裏に今も刻み込まれている。