百人一首の「和泉式部の歌」は、「めっちゃ重い歌」なのか「そうでもない歌」なのか…? その解釈がおもしろすぎた
「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれない。 【写真】これは珍しい…江戸時代の「百人一首」の読み札 しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、無味乾燥だと感じられていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わる……能楽師の安田登氏はそう語る。 話題になっている安田氏の著書『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」について紹介する。 ここでは、和泉式部の歌について『「うた」で読む日本のすごい古典』の〈第三章 「うた」が彩る女房文学〉から一部を抜粋してお届けする。 *** 平安時代中期、一条帝の后には、皇后・藤原定子と中宮・藤原彰子がいて、各々華々しい文学サロンを形成していました。 定子の文学サロンの代表といえば『枕草子』を書いた清少納言です。しかし、定子は二十代の若さで死去、そのサロンも消滅します。 定子が亡くなったあとにできたのが彰子の文学サロンです。そこには、これから紹介する和泉式部や、そして『源氏物語』の作者として有名な紫式部ら錚々たるメンバーが名を連ね、さまざまな文学作品を生み出しました。 私たちが古典文学といってイメージするのは仮名文学です。仮名文学は、このふたつのサロンによって完成されたといってもいいでしょう。そして、彰子サロンに属する女房たちの多くが歌人なのです。 では、歌人でもある女房たちのお話を見ていきましょう。 まずは和泉式部を紹介しましょう。和泉式部が登場する能は、『東北』と『誓願寺』です。このふたつの能、これまで紹介してきたものとは違って、能の中に和泉式部の和歌がほとんど引用されません。和泉式部といえば『和泉式部集(正・続)』に多くの歌を載せ、また『後拾遺和歌集』では最多入集の歌人でもあります。そんなに多くの和歌を詠んだのに能の中にはほとんど引用されていない。不思議です。 しかし、それは最後にお話しすることにして、まず和泉式部の和歌のおさらいをしておきましょう。 和泉式部の和歌は人口に膾炙したものが多くありますが、まずは百人一首にも採られているこの歌から。 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな 『後拾遺集』には「病気のときに、ある人に送った歌(ここち例ならず侍りける頃、人のもとにつかはしける)」という詞書がついています。自分の死を覚悟した和泉式部がその病床で「私はもう死んでしまいます。あの世への思い出に、あなたにもう一度だけ逢いたい」と恋しい人に送った歌だと言われています。 百人一首にも採られているほど有名な歌ですし、難しい言葉もない。わかりやすい歌だと思われていますが、しかしこの歌、いろいろな意味で一筋縄ではいかない歌です。 まず初句の「あらざらむ」。これがここで切れるのか、あるいは次の「この世のほか」につながるのかによっても歌の雰囲気がだいぶ変わります。「あらざらむこの世のほか」と続くと、「私が死んだあとのあの世の思い出にもう一度会いたいわ」という意味になり、そんなに重くはない。 しかし、「あらざらむ」で切れるとなると話が違います。歌を送る相手に向かって「私はもう死んじゃうのよ。だから逢いに来て」というような、かなり強い意味になる。それも死の床の恋人から来たとなれば、飛んで行かないわけにはゆかない。 が、ここで、この歌を歌ったのが「死の床」だとする詞書について考えてみたいと思うのです。詞書というのは「その歌の作られた場所、時、事情などを簡単に紹介したもの」と辞書にありますが、同じ歌の詞書でも歌集によって違う場合もあり、そのまま信じることはできません。この歌も『和泉式部集』には「心地悪しき頃、人に」と書かれています。 「心地悪しき」にも病気という意味はありますが、文字通り「気分が悪い」という意味もある。そうなると病床とは限らなくなる。落ち込んでいるときに「もう死んじゃいそうだから逢いに来て」かも知れない。それだったら死の床ほどの切実さはない。 でも、助動詞「む」を意志と取ると「逢いに来なかったら、私死んじゃうからね。いいの」となって、ちょっとこわい女性にも見えてしまいます。 さまざまな読みの可能性を含むのが初句の「あらざらむ」です。 *** さまざまな解釈が可能な和泉式部の歌。さらに【つづき】「百人一首の「和泉式部の歌」を「声に出して読んでみる」と、意外すぎる発見があった…!」の記事でも、この歌について引き続き見ていきます。
安田 登(能楽師)