哲学者が問う、定年後の「成果を上げない人生」に価値はないと言えるのか?
生きることに価値がある
三木清は、次のようにいっている。 「幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている」(『人生論ノート』) 何も成し遂げなくても、今生きていることがそのままで幸福で「ある」という意味である。人は生きるために働いているという時の「生きる」というのは、そのまま「幸福に生きる」を意味している。生きていることが幸福であるのであれば、働こうと働くまいとそもそも人は幸福で「ある」。 そうであれば、働いているのに幸福でないというのはおかしい。人生には幸福を犠牲にしてまで成し遂げなければならないというようなことはないからである。研修の時に私の講演を聞いていた役員たちは、皆若い時からずっと身を粉にして働いてきたのだろう。 そのように働いてきたのは、他者との競争に勝って昇進して成功するためだったであろう。実際、競争に勝って成功したのである。会社に入る前も、名門大学に合格するということを目指して一生懸命勉強したのは、成功するためだった。 引用文の後半で、三木は「成功」は過程に関わるといっている。三木のこの言葉の使い方は特別であり、普通の意味とは違う。今生きていることが幸福であるのに対して、成功は何かを成し遂げなければならないという意味である。幸福が今という点であるとしたら、成功は直線、成功するためにはそれに至る過程を経ることが必要である。 問題は、成功するかはわからないし、何かを達成して成功したとしてもそれで終わりにはならないことである。また、次の目標がすぐに現れる。そうすると、成功することが幸福だと考えていた人は束の間の幸福を感じられるかもしれないが、また次の目標を目指して働かなければならなくなる。成功は蜃気楼のようなものである。成功したと思っても、たちまち消え去ってしまう。 そして、瞬く間に定年を迎える。働いて成功を収め続けていた間は自分に価値があると思っていた人が、定年で仕事を辞めると、自分にはもはや価値がないと思うようになる。何かを成し遂げることに自分の価値を見出してきたからである。 ある80歳代の銀行の頭取まで務めた男性が脳梗塞で入院した。その人は身体を動かせなくなり、もはや生きていくことに価値はないと絶望し、「殺せ」と叫び続け家族を困らせた。 もちろん、その人が生涯身を粉にして働き、頭取まで勤め上げた人生に価値がなかったわけではない。しかし、仕事を辞め身体が動かせなくなっても、価値がなくなるわけではなく、生きていることに価値がある。それは働いている時と同じである。仕事をしている時には自分に価値があると思えるだろうが、その時でも働いているから価値があるのではない。 誰もが働けるわけではない。働いていても必ず成功するとは限らない。老齢や病気のために働けなくなることがある。若い人でも病気になり、働けなくなるかもしれない。 だが、そのようなこととは関係なく、何があろうと、生きているだけで自分には価値があり幸福であると感じることができれば、働いていてもいなくても、日々の生活の中で幸福を感じることができる。そして、定年や他の事情で仕事を辞め、その結果、多くの人とのつながりが絶えることになったとしても、そのことで、自分の価値がなくなり不幸になるわけではない。