エネルギー小国日本の選択(5) 臨戦態勢のエネルギー産業
やめたかった戦争、そして復興へ
1945年8月15日、日本は敗戦した。受け止め方は人それぞれだ。 「戦争は本当にもう嫌だ。2度とやりたくない。やりたくないって、僕がやってた訳じゃないんだけどね。本当にね、ちょっと考えられないほどひどいものですよ、戦争ってのは」(手塚治虫「講演CD集 未来への遺言:【手塚治虫、最後の伝言】 1988年10月31日 豊中市立第三中学校にて」2003年、エニー) 漫画家、手塚治虫(1928~1989年)は亡くなる3カ月前の最晩年、故郷の大阪府豊中市で中学生を前に、16歳で迎えた終戦時の心境を語った。「ブラック・ジャック」や「火の鳥」などの名作に連なるテーマが“生命”になったきっかけは戦争体験だと説明する。その手塚に終戦を知らせたのは「電灯」だった。 「8月15日、(中略)どうも夕方になってもしーんとしている。人っ子一人いない。おかしいぞ。ちょっと外に出てみようと外に出ていったら誰もいない。みんな家の中に入って隠れている。大阪行ってみようと思って僕は阪急電車に乗って大阪まで行ったの。阪急電車の中も運転士以外誰もいないんですよね。本当に人がいない。これはおかしい。そして大阪の駅に着きました。その時に阪急百貨店のロビーありますね、あそこにシャンデリアがあります。戦争中はシャンデリア、全然電灯ついていなかった。それが、ぱあっと電灯ついていた。向こうの方を見ると、今まで相当空襲で焼けたはずの大阪の街に、あちこちに電灯がついている。それを見て『ああ、戦争が終わった』と思って本当に嬉しくてね。万歳しました。それでね、思わず泣いたんです」 電灯の明るさがもたらす安心感、ありがたみを象徴的に示したものと言えよう。続けて語られた次の言葉で今回は終えたい。彼ら希望を持った戦中派が原動力となり、日本を復興と高度経済成長へ導いた。その中でエネルギーが果たした役割を、次回は見ていきたい。 「本当にその時は泣いた。僕は生きていたから泣いたんです。死ななかったということで。戦争に勝ったとか負けたとか関係なかった。これからまた生きられると思った」