【AIとアート入門】前編:「コンピュータは創造的か」の問いに私たちはどう答えるか? レフィーク・アナドールから近年の研究事例まで(講師:久保田晃弘)【特集:AI時代のアート】
機械学習によるフォーマリズムの再考
──アナドールの作品は、美術館のコレクションというものに、これまでと違うかたちで出会うことを可能にするものですね。美術史という観点からも興味深いです。 久保田:機械学習がクリエイターだけではなく、美術史や美学の研究者にとっても非常に面白いツールになりえることを主張している本があります。それが、今年MIT Pressから出版された、アマンダ・ワシレウスキの『コンピュテーショナル・フォーマリズム(Computational Formalism)』(2023)です。デジタル人文学と美術史を専門とする著者によるこの本は、美術史研究における機械学習やコンピュータ・ビジョン技術の利用を、「コンピュテーショナル・フォーマリズム(計算形式主義)」と名付けて、機械学習が美術史におけるフォーマリズムをどのように復活させ、それがどんな役割を果たすのかを論じています。 この本のなかでも言われているように、画像データベースを機械学習することの拡がりによって、網膜主義が復権しています。それは言い換えれば作品の視覚的要素、つまり色や形といった「いまそこにあるもの」を重視する、フォーマリズムによる美術分析の手法と重なります。もちろん、データとしての画像を分析することと、人間が何かを見ることとは大きく違いますが、それでも画像の機械学習と網膜主義、フォーマリズムは深く関連しています。実際、機械学習による作品の特徴分析──先ほどのアナドールが行っていることや、2016年にディープラーニングでレンブラントの作品の特徴を分析し、その新作をつくった試み(*2)は、基本的にはすべてデータとしての絵画、つまり作品そのものではなく、そのデジタル複製物を機械学習の入力として用いています。アルゴリズムの中に、視覚的なイリュージョン、作品や作者を取り巻く歴史や文化、時代ごとの解釈や批評などは明示的には含まれてはおらず、それらは人間が画像の生成とは別に後付けするだけです。 制作だけでなく、その解釈や批評において「いまそこにないもの」も重要な意味を持ちますし、近年の現代アートの言説は形式よりも、それが指し示している社会的、政治的な状況側面が強くなっています。機械学習がやろうとしていることが、そうした現代の風潮に対する、ある種の反動やオルタナティブであるかどうかは議論のあるところです。けれども、社会的、政治的側面を一旦横に置いて、もう一度、純粋に視覚的な形式を分析する方法として、機械学習は使用できるのかどうか、あるいはそこに何らかの意味や可能性があるのかどうかを、この本では「コンピュテーショナル・フォーマリズム」、つまり計算による形式主義と名付けて議論しています。 過去のフォーマリズムは次第にその純粋性を失って、形式以外の様々な要素が入り混んできましたし、人間の先入観や既成概念によるバイアスや見落としもありました。ですから、大量のデータの機械学習アルゴリズムによる分析が、そこに暗黙のうちに含まれていた人間の規範や価値観を露わにしたり、網膜的情報に限ることから逆に見えてくるものがあるのではないか。美術作品をその複製データだけから分類、分析しようとするコンピュータ科学の方法には、ワシレウスキも強く批判の目を向けていますが、それは同時に今日の美術における西洋中心主義や、男性中心主義も浮き彫りにしてくれます。機械学習を批判することは、機械学習によって批判されることでもあります。機械学習による美術分析には、様々な欠点があるからこそ、その欠点を人間が指摘することで、逆に人間が作ったジャンルやカテゴリーや、画像や言語の限界、アーカイヴや美術館に内在するバイアスといった、人間の側の問題点が浮き彫りになり、データとアルゴリズムという非人間的な手続きを通じて、それらを見直すことへとつながっていきます。 そのうえでワシレウスキは、機械学習に対する批判や議論を交わすこと自体が、美術史家とコンピュータ科学者が、互いに学び合う絶好の機会になるのではないかと主張します。 AIによる画像生成技術の進展によって、現代のコンピュータ科学者たちが、急に美術史や美学について語り始めました。それはもちろん前述のように、作品ではなく画像、人間の視覚や鑑賞ではなくデータ分析、という限られた、あるいは偏った視点によるもので、美術側から見れば「ちょっと待て」という部分がたくさんありますが、そのこと自体を決して否定してはいけないと思います。理工学系と人文学系の諍いとして、90年代後半の「ソーカル事件」(*3)がありました。哲学者が科学的概念を濫用していると物理学者がポストモダン思想家を厳しく批判したものですが、こうした一方的批判だけでば、何も建設的なことは生まれません。AIと美術に関しても、人文学が理工系を一方的に批判するという「逆ソーカル事件」を起さないようにしなければなりません。 ワシレウスキはむしろ、コンピュータ科学者が美術史や美学に対する無知や誤用に陥らないように、美術に対する言説について、美術史家や美学者との会話を促す必要があると主張しています。どちらかが一方的に正しいということはなく、両者が共に自己や自分の基盤や方法に対して批判的になる必要があります。 前述のように機械学習によって、視覚的な形態を優先することによる美術史の再網膜化が起きてしまうわけですが、そこにイメージの分類だけでなく美術史的な積み重ねや、美学的洞察、さらに作品鑑賞における人間の身体的経験をどのように絡めていけるのかは、美術と技術の双方にとって、とても重要なテーマになり得ます。さらに大きな文脈で言うと、人工知能のベースにある科学的認識論、西洋近代的な考え方をどうすれば乗り越えていけるのか。人文学がつくり出した20世紀の大きな歴史が批判的に見直されつつあるなかで、技術の導入による西洋主義の復活を避けるような議論が必要です。もちろんその背後にあるのは、今日の巨大IT企業や国家による、思考や生活のアルゴリズムによる操作や、解決主義のレトリックで、それはジャンルを超えた共通の問題です。 科学技術は問題の定義とその解決に取り組みますが、人文学は物事をいかに解釈できるか、いかに批評できるかを考えます。問題発見とその解決という、生産性や効率と結びつきやすい価値観とは距離を置きます。いまのAI技術、機械学習技術を、何かしらの問題の技術的解決ではなく、批評と解釈、あるいは考古学や人類学のような継続的視点で議論することで、実り豊かな対話の場が生まれるかもしれません。自動車ではなく、交通渋滞についての議論が必要なのです。美術史家であれば、今日のバイアスのかかった大きな歴史を見直したり、複数化するための技術や方法を考えることかもしれないし、技術者であれば、自分たちが作るものに含まれている、文化的な意味合いや歴史的文脈との結びつきを考えることかもしれません。もちろんそれはあまりにも楽天的な考え方で、どうやっても結局は喧嘩別れに終わってしまう、という意見もあるとは思いますが、たとえそうであったとしても、機械学習やAI技術によって、美術史家や美学者と、コンピュータ科学者が新たな対話を始める機会が生まれる方が良いと思っています。