【AIとアート入門】前編:「コンピュータは創造的か」の問いに私たちはどう答えるか? レフィーク・アナドールから近年の研究事例まで(講師:久保田晃弘)【特集:AI時代のアート】
レフィーク・アナドール作品に見る、人間とコンピュータ・システムとのあいだに生まれる新たな意識
──AI研究は50年代に遡ることができますが、2022年12月にChatGPTが登場したことで、大規模言語モデル(Large Language Model, LLM)を用いたAIが一般的にグッと身近になり、ビジネスシーンや社会インフラの面でも、大きなインパクトを与えるものになりました。すでにヴィジュアルに関しては、テキストから画像を生成するDALL-E2やMidjourneyが2022年にリリースされていて、イラストレーターやアーティストの仕事はAIに取って代わられることもあり得るのではないか、といった不安も広がっています。 TABでは「AIとアート」という特集を組むにあたって、現在の状況を概観するような記事を作りたいと思い、久保田さんにお話を聞かせていただくことにしました。まず、AIとアートに関して押さえておくべき代表的な事例や、そこから見えてくる可能性について、お聞かせいただけますでしょうか? 久保田:「AI(人工知能)」と一言で言っても様々なものが含まれますが、まずは最近よく話題に上がる、機械学習やディープラーニングに関わるものから、取り上げていきたいと思います。 機械学習技術を大規模に用いることで良く知られ、賛否両論様々な言説が交わされているアーティストの代表例が、レフィーク・アナドール(1985年トルコ・イスタンブール生まれ)です。とくにニューヨーク近代美術館(MoMA)のロビーに展示された、最新作の《Unsupervised》(2022)は、MoMAのコレクションから約14万点弱の画像データベースを機械学習し、その特徴が圧縮された潜在空間のなかをウォークスルーしていくことで、新たな画像を生成していくものです。 この作品について議論するとき、使用されている技術を何となく「AI」と呼んでしまいますが、AIという言葉の起源、つまり「コンピュータによる人間の知能の代行」あるいは「人間の知能の仕組みに関する計算論的研究」という概念だけでもとても広いので、作品毎に、使用されている技術を明示、共有して、AIに対する言説の解像度を上げていく必要があります。たとえばアナドールの《Unsupervised》でいえばディープラーニングを用いた「機械学習」、あるいはタイトルの通り「教師なし学習」でしょうか。ざっくりとAIと言うのではなく、データや技術の使われ方やその意味をひとつ一つ考えていくことが、大切だと思います。 《Unsupervised》について、ニューメディアの理論家・批評家・アーティストであるレフ・マノヴィッチがMoMAのブログにこんなことを書いています(*1)。《Unsupervised》の機械学習に用いたデータベースは、MoMAが所蔵している作品の画像なので、その中心は20世紀のモダニズムの芸術です。そこには抽象やキュビスムを始めとする、近現代の様々な作品が含まれています。そうした20世紀美術のメインストリームは、何か新しいものを生み出すために伝統と決別し──つまりそれまでに行われたことを否定、あるいは拒絶して、新たな可能性を探ることでした。それに対して、アナドールが行ったニューラルネットワークによる機械学習のトレーニングは、これまで「否定していくべき」だったものを、逆にすべて入力データとして受け入れて、そこから何か別のものを生成している。そうした機械学習の方法を、マノヴィッチは「『メタ』保守的なアーティスト」といいました。 そこでマノヴィッチが持ってきたメタファーが、アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』です。『惑星ソラリス』では、人間とは異なる知性体が、主人公ケルヴィンの記憶を探索し、その意味や文脈をまったく理解しないまま、例えば過去に自殺した妻を、物質的実体として生成します。マノヴィッチは最後に「《Unsupervised》もまた、MoMAの所蔵作品を制作したアーティストの思考や衝動から切り離された、非常に身近でありながら異質なものを生み出している。おそらくそれは、人間とコンピュータ・システムとのあいだに出現するであろう、新しい意識のかたちをいち早く垣間見たものである」と肯定的に述べています。 マノヴィッチは《Unsupervised》を、既存の美術史の文脈やメディアアートの歴史に連ねたり、重ね合わせるのではなく、それを「メタ」保守的な人工アーティストが生み出す異質な文化言語とみなして、その出力を人間はどのように読むべきか、という観点から論じています。これはひとつの例にすぎませんが、このようにAIがつくったものの意味や可能性、そしてそれを受け取る人間の認識の限界を議論することは、とても重要なことだと思います。