なぜ古代オリンピックは1200年近く続いた? 背景にあるギリシャ人の“厚いスポーツ信仰”
人間が生きている限り、スポーツは存在する
聖火の点火の儀式の最高潮は、聖火が人力でアテネのパナシナイコスタジアムに運ばれる場面だろう。そこではロンドンへの引き渡しのセレモニーがおこなわれる。聖火がイギリスに到着すると、人口の9割が一時間以内に到着できる(と宣伝されている)ルートを回る。何千人もの人が見物に繰り出すとされている。 ギリシャ人はもちろん、オリンピックという運動の震源地にいることを誇りに思っている。何百人もの人がリハーサルを見ていたし、さらに多くの人が本番を見るだろう。 だが、ギリシャ人は明白で苦しい皮肉に見舞われている。国際オリンピック委員会は、近代オリンピックをその生みの親である偉大な文明と結びつけるために、オリンピアが持つ象徴性を大いに必要としている。古代ギリシャは世界のなかで類を見ない重要性を持っている。それとのつながりをアピールすることは、近代オリンピックに正統性と強力な意味を与える。 しかし、今日のギリシャとの関係を進んで強調したいと誰が思うだろうか? ユーロ圏全体を危険な状態にしかねないデフォルトの危機にひんする経済の機能不全や総選挙の試みなどは、集団的な神経衰弱のように見える。オリンピアを案内してくれたガイドはこう言っていた。 「私の仕事はギリシャの過去の栄光について語ることです。しかし未来は暗いので、涙が出てきそうです。100世代にわたって続く栄光が古代ギリシャ以外にあるかどうかわかりません」 だが、ギリシャが国を挙げての自己反省に取り組んでいる間にも、人類の偉大な発明の一つであるオリンピックは守られるだろう。現在のオリンピックの守護者たちは、信頼を損なうこともたくさんしてきたにもかかわらず、世界的な広がりと名声を高め続けてきた。そして、汚職への対応が不十分などの理由で、仮に国際オリンピック委員会のもとでの大会が衰退しても、大会の根底にある儀式としての意義が損なわれないことは確かだろう。 オリンピアが証明するもの、それは、人間が生きている限りスポーツが存在するということにほかならない。
マシュー・サイド(ライター),永盛鷹司 (翻訳)