なぜ古代オリンピックは1200年近く続いた? 背景にあるギリシャ人の“厚いスポーツ信仰”
勝利の裏にあるもの
古代オリンピックを完全に終わらせたのはキリスト教だ。ローマ皇帝テオドシウス1世が異教の偶像崇拝を批判し、祭典は禁止された。スポーツ界の中心地はオリンピアからローマへと移り、競われるのは陸上競技から、コロッセオ(剣闘士試合)やチルコ・マッシモ(戦車競技)で知られる、より命に関わる競技になった。スポーツは血に飢えた回り道をしたのだ。 だが、オリンピアの神域を歩いて古代の遺跡を観察すると、古代と現代の間のへその緒のような結びつきを発見できる。競技場の入口には、多くの偉大なアスリートたちが像で記念されている。競技に勝つことはその人自身の栄誉のみならず、その人の故郷の町の栄誉でもあった。今日もそうであるように、勝利は政治的な宣伝の重要な道具であった。そうならないように、多くの都市がエリートの訓練場に公金を投じていた。 その結果、プロフェッショナリズムが出てくるのは避けられなかった。近代オリンピックの優勝者に賞金がないように、古代の勝者にもオリーブの冠しか与えられなかった。だが、勝利が持つ商業的な影響力はとても大きかった。勝者は故郷の町からの賞金を期待できたし、大会の運営者にとっては、もっと低級の祭典に参加してもらう金銭的動機にもなった。 そのため、勝者へのへつらいは類を見ないほど激しかった。アクラガスのエクサイネトスが紀元前412年に短距離走で二度目の優勝を果たしたとき、彼は300台の戦車に護送されてシチリア島に帰り、彼の入場のために都市の外壁の一部が壊されたという。 ところが、大きな報酬は大きな誘惑にもなる。当時は違法薬物は存在しなかったが、古代オリンピックでもさまざまな方法で不正が見られた。なかでも目立ってはびこっていたのが八百長だ。 最初に記録された事例は紀元前388年で、テッサリアのエウポルスが3人のボクサーに賄賂を渡して負けるように頼んだという。それ以降、不正には巨額の罰金が科され、その収入で警告を発するための像がつくられた。その多くは、競技場跡に入る通路に今日も残っている。ある像のもとには「オリンピアで勝利するのは金ではなく足の速さと体の強さだ」という警告が記されている。 他方で、古代オリンピックと近代オリンピックには違いもある。その最も顕著な例は、オリンピアの男子選手たちは裸で競技しなければならなかったことだ(女性は競技への参加も観戦も許されていなかった)。これは部分的には、走者が服につまずかないようにという現実的な理由からだったが、究極的には、同性にエロティシズムを感じる文化の表れでもあった。ギリシャの社会は男色を推奨しており、年上の男性が性的な獲物を求めて体育場をうろついていることもあったのだ。 裸であることは、ギリシャの歴史を通じて保守主義と戦い続けた民主主義的な感覚への連帯の印でもあった。衣服や、その他の階級を示すものを取り去り、貴族と下層階級が平等に競い合うのだ。審判の前では、万人が平等だった。 だが、近代のオリンピックと同様、能力主義の考え方は簡単に誇張された。フルタイムで訓練できる財力がある人だけが成功のチャンスをつかめた。勝利すれば多額の報酬がもらえることでこの基本原則は曲げられたが、仕事を休んで一定期間集中してトレーニングをするのは貧しい人にとっては大きなリスクだった。 実際、身分による特権は見えない壁となっていた。勝利の冠は社会の裕福な層に集中していたのだ。ほぼすべての競技で裕福な国がメダルをたくさん取っている今日と同じ構図である。