なぜ古代オリンピックは1200年近く続いた? 背景にあるギリシャ人の“厚いスポーツ信仰”
紀元前776年に始まり、1200年近くにわたって中断なく続いた古代オリンピック。アリストファネスやプラトンなどの偉人たちも観戦に訪れたといいます。 なぜスポーツはこれほどまでに、私たちを魅了するのでしょうか?古代オリンピックの歴史を知ると、変わらない共通点が浮かび上がってきます。 ※本稿は『勝者の科学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。
紀元前776年に始まり、1200年近く続いた
古代オリンピックの規模は驚異的だった。歴史家によると、それは紀元前776年に始まり、中断なく1200年近く続いた。それは飢饉も、疫病も、知識や道徳の大変動も、そしてほとんど止むことがなかった戦争も乗り越えた。オリンピックは実質的に、古代と前近代を結びつける一貫した主導的概念であった。 古代オリンピックは、なぜ一度の中止もなく続いたのだろうか(近代オリンピックはすでに戦争で中止になったことがある)。歴史家たちはその答えを見つけられずにいる。答えの一つは、異教信仰の統率力かもしれない。競技はゼウスを称え、その怒りを鎮めるために必要だとみなされていた。古代世界の七不思議の一つであるオリンピアのゼウス像は、競技場からわずか数ヤード(数メートル)のところに立っていて、その目は威圧感をたたえてかすかに輝いていたという。 もう一つの理由は、単純な政治的強制力かもしれない。アテネの民主主義は、金で雇われた軍隊ではなく投票権のある民衆が戦い出資するという形をとり、戦争における軍事的基盤を変えた。さまざまな体育場で運動能力と肉体的な強さが育てられたのは、部分的には肉体の美しさの追求と、当時主流だった同性にエロティシズムを感じる文化のためだったが、夷狄(いてき)を追い払える戦闘力を築くためでもあった。 しかし何よりも、古代オリンピックが長く続いたのは、競走、ヒロイズム、ドラマといった、今日でも残るスポーツの諸要素に対する信仰があったからだ。 世界で最大級に立派なアスリートたちが偉大な賞をかけてスポーツで競う様子を見るときの感情の高まりを称えたのは詩人だけではない。哲学者や歴史家、政治家も心を奪われた。聖者であったテュアナのアポロニオスはこう述べたという。 「天に誓って言おう! 神々にとってこれほど快く、愛おしいものは人の世にないと」 このような視点で見ると、現代のスポーツも現代特有の現象とは言えなくなるだろう。商業主義的な道具やテレビのカメラを取り払えば、それは古代までさかのぼる儀式の、最新の形態にすぎない。何の競技であれ、それは人間であることの条件に等しいだろう。 ほかの何よりもまさにこの理由で、スポーツは一貫して神話化されてきた。ヴィクトリア朝時代の人々はスポーツが人格を涵養すると論じた。今日の政治家は、スポーツはあらゆる社会的病理の万能薬だと主張する。 だが、ギリシャ人ほどスポーツを熱心に布教した人たちはいない。ソクラテスは、スポーツの修練が徳をつくると論じた。プラトンは、スポーツは誘惑に対する抵抗力を強めると論じた。これらの主張にエビデンスがあるか否かは、今日と同じように重要ではない。スポーツの道徳的、社会的、政治的重要性は、昔もいまも、必要な神話であった。