叱責でも放置でもない「第三の対応」がある…中学教師が現場で見つけた「対立なし」の生徒指導
あえて想定外の言動で斬り込む「肯定的フィードバック」とは何か
別の日、下校時間をだいぶ過ぎた後、校門のあたりに生徒が20人ほどたまって騒いでいた。私はここにも明るく介入する。 「車に乗れ、家庭訪問するぞ」 こう告げると、言われた生徒は目を丸くした。 「大丈夫です。歩いて帰ります」 「ついでだから乗っていきなさい」 「……」 「いいな! うらやましい!」 取り巻きからそんな声があがる 「よし、全員家庭訪問してやる」 私がそう言うと悲鳴があがり、皆、クモの子を散らすように帰っていった。 家庭訪問するぞ、と告げた生徒は実際に車に乗せ、自宅まで送り届けた。家に着き、母親、本人と5分ほど話した。それで終わりだ。 最後は彼が深々と頭を下げ、「ありがとうございました」と言った。母親は、目頭を押さえた。 怒るでもなく、放置するわけでもないこの対応を、私は「肯定的フィードバック」と呼んでいる。これは、生徒を直接変えようとする試みではなく、まずは反抗的・挑戦的な態度をとりがちな対象者と自分との「関係性を改善する」ことを目的とする方法だ。 ポイントは、「生徒の自己主張からすると少々的外れな場所へ、想定外の言動で斬り込む」という点にある。そうすることで彼らの強固なこだわりが一瞬ゆるみ、緊張が緩和されてコミュニケーションの可能性が高まる。私の場合、無理に肯定的なフィードバックを意識しているわけではなく、心の底から出てしまうようにまでなっている。
「肯定的フィードバック」で指導を入れるきっかけをつかむ
再びエピソードを挙げよう。ある日の休み時間、いままさに暴れ出そうしている生徒に出くわした。 「腹が立つから殴ってやりてえ!」 男子生徒はそういきり立っている。 ここで「殴ったら傷害罪だぞ」「殴られた相手の気持ちや立場も考えてみろ」と告げるのは典型的な説諭だ。たいてい火に油を注ぐことになる。 「そこまで腹が立っているのですね」と伝えるのは共感である。いい対応に見えるが、こういうときの共感は、言っても言わなくても大差ない。 それらに対して第三の対応「肯定的フィードバック」では、男子生徒にこう伝える。 「それだけ腹が立っているんだな。それでもまだ殴っていないよな。我慢している君はすごい」 私はこういう場面を幾度も経験しているが、ほとんどの場合、言われた生徒は一瞬ポカンとする。子どもは、説諭は予想していたかもしれない。だが、そんな肯定的なことを言われるなどとは想定していないからだ。 このポカンとした瞬間、彼のこだわり(この場合は「殴ってやりたい!」という自己主張)は緩和されている。だから、こちらの言うことが入りやすくなる。 もう一つ例示しよう。 「父親も母親も偽装離婚して、生活保護を受けているんだ。働いて苦労しても安い給料だ。俺も親のように生活保護を受けるんだ。だから構うな!」 学校でこう言い放った生徒がいた。読者ならば何と返すか。 ひるんだら終わりだ。彼らは簡単にこちらの頭上を飛び越えていく。 教師の多くは日頃の反抗的・挑戦的態度でストレスがたまっていることもあり、 「健康なのに働かないやつは人間失格だ!」 「納税は国民の義務だ」 などと、つい説諭してしまうが、それでは無駄に事を荒立てる。正論を100回語っても、彼らのこだわりは緩和されない。むしろ頑な(かたくな)に自己主張を強め、ケンカ腰になり、教師との関係性は崩壊する。 かといって、「そうか。生活の先行きに自信を持てないのですね」と共感しても、現実は何も変わらない。当たり前のことを言っても、非行にはしる生徒の心は動かない。それどころか、ややもすると相手に侮辱と誤解されるリスクがある。 肯定的フィードバックなら、たとえば、 「そこまで明らかに間違ったことを一方的に自己主張できるのはある意味すごい!」 と返す。生徒の顔が想像できよう。 この方法で生徒が変容するわけではない。だが、関係性は確実に改善されていく。本格的な指導はこのあとやればいい。