金八先生以後に生じた「学校=悪という構図」「学校が良いサービスを提供して当たり前という考え方」…工藤勇一校長が指摘する<近年の教育現場が抱える問題点>とは
◆つくられた「学校=悪」という構図 もちろんその当時、学校の現場にはさまざまな矛盾もありました。僕自身、金八先生のように、学校教育の矛盾や理不尽な教師の姿に強い怒りを感じることも多々ありました。 ただ冷静に現実を振り返ると、問題は発生しているけれども、意図して問題を発生させようとか、悪意をもって誰かを追い詰めよう、としていた教師ばかりではありません。良かれと思ってやっているうちに結果として、問題を生み出してしまったケースもたくさんあります。 先生たちが、自己保身や責任回避に走り、それによって子どもたちを追い詰めていく、という構図は大きな勘違いです。 ところがいったん「学校が悪い」という図式ができてしまったら、元には戻れません。テレビドラマが繰り返しその図式を浸透させる役割を果たしたのだとすれば、悲劇的ともいえるでしょう。 日本の文化や日本のメディアは、わかりやすい対立の構造が好きです。 明快な対立を作ったほうがドラマとしてもヒットするし、視聴者も喜ぶ傾向にあるからです。 もちろん、ドラマを通して学校の問題がクローズアップされたこと自体は、非常に意味があります。しかし、対立がクローズアップされ、問題の根本的な「原因」が見えにくくなってしまったのでは本末転倒です。 学校を批判すれば正義である、というお定まりの図式が金八先生のヒットによって定着したとすれば、それはもっと深刻な問題を生んだことになります。 『3年B組金八先生』は、結果として「学校教育に問題がある」というイメージを広く根づかせました。 そうした風潮によって、新たな問題が生まれていきます。
◆教育のサービス産業化 教員側からすれば、できるだけ問題を発生させないようにしたいという心理になりがちです。 そして問題が生まれないようにと、ますます管理を徹底していくようになります。少しでも学校が荒れたら、それを正すために学習規律や生活規律を厳格化し守らせ、管理していく。また、生徒や保護者の視点から言えば「教師や学校にサービスを求める」という図式を加速させてしまったのだと僕は感じています。 つまり、良いサービスを「してあげる」のが良い学校や先生であり、親からすれば「学校が我が子にサービスを提供するのは当たり前」という考え方になります。 それによって学校の現場は、さらに大きな問題を抱えることになりました。 大人が何でもやってあげて与える側にいて、子どもは与えられることに慣れてしまう。そんな構図が、日本中の学校に定着していきました。 簡単に言えば、教育のサービス産業化です。 与えられるのを待つ姿勢が当たり前になった人間は、うまくいかないことが起こるたびに、他人のせいにしてしまうようになります。 いじめが起こるのは学校が悪い。子どもが授業を理解できないのは、教え方が下手な先生の問題だ。成績が伸びないクラスは担任の責任。 生徒も保護者もそのような考え方になっていきがちです。 ※本稿は、『校長の力-学校が変わらない理由、変わる秘訣』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
工藤勇一