江戸の「取り調べ」はこうして行われていた…唐人から「木綿に包まれたもの」を預かってしまった久右衛門の場合
江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。 【画像】1825年の出島の地図 その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。 「犯科帳」の中から、唐人から布に包まれた物を預かり犯罪に巻き込まれてしまった久右衛門のケースを取り上げ、江戸の取り調べの実情を見てみよう。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】
木綿の切れに包まれた物の中身
自首してきた者であれ、捕らえた者であれ、必ずしも奉行所で真実を述べるとは限らない。そのため自供内容の確認は必ずなされた。奉行所では、異国人と日本人の両方が関係するような案件でも、それぞれの自供を突き合わせている。一つの事例を紹介しよう。 油屋町の住人、日雇の久右衛門は、元文四(1739)年正月二九日、この年の一番唐船(その年の一番目に入港した唐船のこと)の丸荷役を務めていた。丸荷役とは、船荷を荷揚げして目録と照合し、蔵まで運ぶ仕事だが、その際、本石灰町〈もとしっくいまち〉の住人で日雇頭の久平次に頼まれて、唐人から木綿の切れに包まれた物を受け取って久平次に渡した。日雇はいかなる品物であっても唐人から受け取ってはならないとされていた。だが久右衛門は日雇頭に言われるままに動いたのだった。 軽率にも確認しなかったが中身は折人参(朝鮮人参の根の部分を表す呼び名の一つ)であったから、結果的に抜荷の片棒を担いでしまったことになる。折人参の目方は八四匁一分ほど、約320グラムであった。 久平次は唐船貿易の倉地である新地で同じく日雇頭を務めていた油屋町の住人・又兵衛にこの人参を預けた。又兵衛は、荷役が終わるとそれを新地から持ち出して自宅に秘匿していた。ことの子細はわからないが、このことが長崎奉行所の知るところとなり、久右衛門は所預、久平次、又兵衛には入牢が命じられ取り調べが行われたのだった。 久右衛門は何も知らなかったので咎めもなく許されたが、他の二人には唐人の自白と突き合わせて事実確認がなされたようである。 又兵衛は事情をまったく知らないまま、折人参を預かっていたと主張したが、奉行所は、中身が何かも知らずに物を預かることはないはずで、何も知らなかったとの言い分は成り立たないとした。そのため何かしら刑を申し付けるべきなのだが、預かった人参を欲に乗じて分売などはせず、そのまままとめて所持していたこと、また談合して密買などを計画していたわけではなかったこと等を勘案し、今後、出島、唐人屋敷、新地、唐船・オランダ船の荷役場への立ち入りを堅く差し止めるとした上で出牢を許した。