江戸の「取り調べ」はこうして行われていた…唐人から「木綿に包まれたもの」を預かってしまった久右衛門の場合
長崎の特殊な犯罪事情
では久平次は、なぜ折人参を唐人から預かったのだろうか。それは見返りに端物(反物)の切れ端をもらえるからだった。 このような、唐人屋敷や出島で端物を拾う話が「犯科帳」には数多く見られる。これはどういうことかというと、長崎には質屋があったが、持ち込んだ物の出所を確認せず、持ち込んだ者の印も帳面にもらわずに代金を貸す慣習があったからである。そのため盗賊なども質屋を利用するほどだった。 質屋で出所を確認し、帳面に印をもらうよう法ができたのが天保一三(1842)年のことであり(『御仕置伺集 下巻』三四八頁)、ここに紹介したような事例のようにして拾った物を質屋に持ち込めば小金を得ることができていた。それで幕府が盗みなどを禁止していたにもかかわらず、禁を犯す者が後を絶たなかったのだ。 久平次をそそのかしたのは、この年の一番唐船の水主〈かこ〉(乗組員)である倪全御。彼は長崎への上陸時に先の人参を隠し持っていたのだが、改めが厳しくどうしようもなかったので当惑して久平次に渡したと自白した。 久平次と倪全御の口述から、今回の件が計画的な犯行ではなかったことが明らかになった。久平次には、人参を取りあげた上、日雇頭の職を解き、今後、出島、唐人屋敷、新地、唐船・オランダ船の荷役場への立ち入りを堅く差し止め、これを犯した場合は罰を与えると命じた。倪全御に何が命じられたのかは「犯科帳」には記されていない(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)三六三~三六四頁)。 「犯科帳」を確認すると異国人の犯罪者が記されている場合もあるが、ここで見た事例のようなことも多く、捜査過程、事件の全容が掴めないことは多い。したがって中にはつぎに紹介するような冤罪事件も起きていた。 【つづき「「疑わしき者はとりあえず捕まえる」…「犯科帳」に記録された「江戸の冤罪事情」」】 *
松尾 晋一(長崎県立大学教授)