容疑者の「刑事責任能力」とは 心神喪失者はなぜ無罪? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
神戸の小1女児遺棄事件で「刑事責任能力」という言葉が取りざたされています。逮捕された容疑者は知的障害者が持つ手帳を持っていて、警察が刑事責任能力の有無について調べていると報じられていますが、ネット上では「責任能力なしで無罪になるのか」などの書き込みが見られます。 今回の事件は別にしても、心神喪失状態だと不起訴や無罪になるとされます。それはなぜなのか、容疑者の刑事責任能力とはどういう考え方なのか、見てみましょう。
「心神喪失」と「心神耗弱」
刑法39条は 1項 心神喪失者の行為は、罰しない。 2項 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。 としています。行為に対して人は責任を持ちます。罪と裁かれれば罰(報い)を受けます。犯罪者は非難されるべきだからです。罰もまた責任です。報いを果たさせて「もうこりごりだ」と思いこませるのが刑罰の基本。物事の良し悪しの判断がまったく付かない状態で、犯罪に当たる行為に及んだとしても責任(非難)の問いようもないので心神喪失=責任無能力の者は罰しないという考え方で西欧を中心に近代刑法が登場した19世紀頃すでにハッキリと現れています。その頃同じような主張をしたマックノートン・ルールなどが日本の刑法の基盤となっています。「責任なければ刑罰なし」の原則とも呼ばれます。 仮に心神喪失の者が殺人を犯して懲役20年の判決を受け確定したとします。しかし彼・彼女は何でそうしたのかも、そうした事実も認識できません。要するにわけがわからないのです。それを懲役という罰を与えて非難されても、やはり意味が理解できません。よって矯正(欠点を直す)効果も期待できないのです。 さて、心神喪失(しんしんそうしつ)=責任無能力と判断されるのはなぜでしょう。多くの場合、精神障害、知的障害、あるいは酩酊状態などの意識障害が該当します。行為の善しあしや判断が全くできない状態で、パーソナリティ障害はほとんど認められません。 心神耗弱(しんしんこうじゃく)は部分責任能力であり、行為の善しあしや判断が著しくつきにくい状態を指します。やはり精神障害、知的障害、意識障害などに多くみられるのです。パーソナリティ障害はやはり認められないケースが目立つものの「耗弱」レベルの検討は必要との意見もあります。