「サブカルとJ-POP」1970年代編、長髪、全共闘、CMソング、ウーマンリブ、暴走族
70年代のサブカルが海外に飛躍した最大のヒーロー
さよなら ぼくの ともだち / 森田童子 蚊の鳴くように悲しく儚く美しい声。1975年10月発売2「さよなら ぼくの ともだち」。バンバンの「「いちご白書」をもう一度」が出たのが1975年8月でその後にこれが出ているんですね。髪を切った人と髪を切らなかった人。変わった人と変われなかった人。髪を切らずに変わろうとしなかった人の中には、自分から命を絶ってしまった人も少なくなかった。そういう人のことを思って歌ったのが、この「さよなら ぼくの ともだち」ですね。 そういう若者というのは別に70年代だけではなくていつの時代にもいるんだということを教えてくれたのが、1993年のドラマ『高校教師』でしょうね。70年代のサブカルではありましたが、それがサブカルというふうに呼ばれなくてもいつの時代にもそういう若者がいる。サブカルということで70年代を括ると、本当にいろいろな要素が出てくるんです。映画とか、音楽とか、それもそれまでの作り方とは違う新しいやり方がたくさん出てきた。アメリカのニューシネマというのは、ハリウッドのようなお金をかけた大作主義ではなくて、もっと若者たちの生活実感、アメリカの歴史を見直そうということで、学生運動の映画とかインディアンの映画が作られたりしました。ギャングとしてアメリカの歴史に残っている若者たちを取り上げたり、そういうニューシネマがたくさん生まれました。 社会的に言うと、公害、環境問題もあった。宇宙船地球号というのは当たり前の言葉になりましたが、カナダのヒッピーが使った言葉ですね。そういう文化が時代によって変わっていく中にテクノロジーというのが、重要な要素として関わっていたわけで、音楽で言うとシンセサイザーでしょうね。70年代後半のサブカルがテクノだった。そのブームのきっかけとなった人が、この人ですね。 はらいそ / 細野晴臣 1978年4月発売、細野晴臣&イエローマジックバンドのアルバム『はらいそのテーマ曲』、「はらいそ」。この曲のアルバムのレコーディングのときに、細野さんが坂本龍一さんと高橋幸宏さんを呼んで、YMOの構想を話した。YMOは1978年11月にデビューしているんですね。このアルバム『はらいそ』の時のバンド名はイエローマジックバンドなんですが、1975年のティン・パン・アレーのアルバム『キャラメル・ママ』の中に「イエローマジックカーニバル」という曲があるんですね。そういう意味でははっぴいんどの最後のアルバムで『さよならアメリカ さよならニッポン』と歌った細野さんとか大滝さんとか、松本さん、鈴木茂さん。そこから始まったある種の無国籍の流れ。国籍を超えていこう、国籍を無視していこう、自分たちの音楽を世界中に広げていこう。その中にアジアというのが出てきて、細野さんは『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』という3枚をトロピカル三部作として発売したんですね。アメリカ一辺倒ではなくなって、アジア的なごった煮をおもしろがる。そこにシンセサイザーが入ってきて、ダンス・ミュージックが加わってYMOになって、80年代になっていく。70年代のサブカルが海外に飛躍したという最大のヒーローになっていくわけですが、そういう70年代の終わりにこんな歌もあったんです。 狼になりたい / 中島みゆき 1979年発売、中島みゆきさんのアルバム『親愛なる者へ』から「狼になりたい」。なんでこの曲で締めるのかというのも理由がありまして、70年代後半の若者たちの1つの社会現象に暴走族がありました。暴走族という呼ばれ方はしてませんでしたけど。サーキット族。長髪で始まった70年代。長髪の若者たちがあるとき長髪を切って、世の中に入っていって長髪を切らなかった人たちがドロップアウトして、いろいろなことを始めた。その後の若者たちが、この暴走族でしょうね。今のように法律も厳しくなかったんですね。共同危険行為等禁止規定というのが始まったのが1978年の道路交通法改正からです。このときの道交法改正はこういう暴走族を取り締まるため、路上を走らせなくするための法律だったのですが、それまでは原宿の街をそういう若者たちが走っていましたからね。たとえばキャロルの解散コンサートのオープニング、原宿から日比谷の野音まで、クールス、暴走族ですよ。彼らがバンドを先導していた、あれが物語っておりますね。その暴走族がこの「狼になりたい」を流していたんですね。車高短の車に箱乗りしながら、これを大音量で流しているのを僕見たことありますが、そういう行き場がなくなっていた、走ることもできなくなった若者が狼になりたいと叫んでいた。70年代サブカルの最後の形かもしれません。