「サブカルとJ-POP」1970年代編、長髪、全共闘、CMソング、ウーマンリブ、暴走族
70年代のサブカルの1つ、ウーマンリブ
Joseijoi Banzai / Yoko Ono この曲を歌っている女性がどなたかおわかりになりますか? オノ・ヨーコさん。ジョン・レノンの奥さんですね。オノ・ヨーコ&プラスティック・オノ・バンドwithエレファンツ・メモリーというジョン・レノンのバックバンドとオノ・ヨーコさんのバックバンドが一緒になっている。女性上位バンザイという歌なんですね。1973年に日本だけで発売されて、2020年、4年前に47年ぶりに復刻されたというシングルです。オノ・ヨーコさんは1974年、郡山ワンステップフェスティバルに来日しているのですが、この郡山ワンステップが50周年ということで、CD3枚組とDVDでリミックスされた音源がベスト盤として発売されておりまして、この中にオノ・ヨーコさんの曲が入っているんですね。今までCDにできませんでした。オノ・ヨーコさん自体のワンステージ丸ごとパッケージで発売されました。 70年代のサブカルの1つにウーマンリブというのがあったんですね。中ピ連。中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する女性解放連合という長い名前で、ピンクのヘルメットを被ってデモをやっておりました。その活動の形が70年代の学生運動の1つの形ではあったんですけども、メディアからは茶化されましたねえ。揶揄されて、辛辣に扱われて結局中ピ連はなくなってしまいましたが、彼女たちの考え方は未だにちゃんと生きている。今、女性上位なんて言葉を使う必要がないくらいに女性の権利、まだまだ虐げられている面はあるとは思いますが、当時とは違って女性の社会的な地位というのは向上しているのではないでしょうか。国際的にはまだまだ下位ですよ。上から数えるより、下から数えた方が早いというぐらいの後進国ではあります。この後もいきなり新しい女性の歌から始めます。 やさしさに包まれたなら / 荒井由実 1974年に発売になった荒井由実さんの「やさしさに包まれたなら」。アルバム『MISSLIM』ですね。日本の音楽史の1つの分岐点がこのユーミンのアルバム3枚。『ひこうき雲』、『MISSLIM』、『COBALT HOUR』だったんだなとあらためて思ったりもしております。メイン・カルチャーはやっぱり男性の文化だったんですね。ロックもそうですね。さっき話に出た郡山ワンステップフェスティバルは女性アーティストで出たのが、オノ・ヨーコさんとリタ・クーリッジとサディスティック・ミカ・バンドの加藤ミカさんぐらいでしょう。やっぱり男のものだったんですね。 「やさしさに包まれたなら」を聴いたときの衝撃。目から鱗のような想いでこの曲を聴いた記憶がありまして。「やさしさに包まれたなら」「目にうつるすべてのことがメッセージ」。この一言が男性には絶対書けないと思ったんですね。さっきの「Joseijoi Banzai」と「やさしさに包まれたなら」を比べると、ユーミンがいかにオリジナリティがあったかということをおわかりいただけると思います。ロックアーティストにはこれは書けないと思った。それまでメッセージっていうのは、発するものだったんですよ。頭脳警察を筆頭にして、頭脳警察は何の悪意もないですが、男性シンガー・ソングライターやバンドもそうですが、メッセージはこちらから世の中に発するものだったんです。ユーミンは受け取るものって歌ったんですよ。物語というのは物が語るものなんだ。そういうのを感じられるかどうかだ、物が語っていることを受け取る感受性があるかが一番の問題なんだ。メッセージ・ソングの意味が全く変わっちゃったんです。で、朝起きたときに空を見て、周りの木々を見て、公園の緑を見たときに何を感じるか。これがメッセージなのかもしれないと思った。ビートルズの『アビー・ロード』に「ヒア・カムズ・ザ・サン」がありましたが、日本ではこれでしたね。音楽が朝のものになった。やっぱりロックは夜型だったんです。政治の時代が終わったと実感したのがこの曲でありました。ユーミンが書いた曲をお送りしますね。 「いちご白書」をもう一度 / バンバン 1975年発売、バンバンの「「いちご白書」をもう一度」。ユーミンが書きました。この曲はモデルがいまして、バンバンのディレクター、拓郎さんのディレクターでもあったのですが、彼が早稲田で学生運動をやっていたんですね。そういう話をユーミンにしていて、ユーミンがだったらそれを歌にということで書いたという。この話は有名ですね。就活のために長髪を切るというのは、これが時代の1つの変化でありまして長髪文化の終焉ですね。就職することは敗北であり、転向だと思った時代があったんです。で、1975年というのは中島みゆきさんの「時代」が発売されて、フォーライフレコードが発足してつま恋のオールナイトコンサートが行われて、60年代の終わりからだんだん70年代始めのサブカルがメジャーを席巻していく。そんな分岐点の年になったのですが、髪を切った人ばかりではないんです。 髪の毛を切らなかった人もたくさんいたんですね。髪の毛を切らなかった人はどうしたか。ライブハウスが、そういう場所になっていった。ロフト、最初は1971年に烏山ロフト、1973年に西荻ロフト、1974年に荻窪ロフト。このロフトを始めた平野悠さんが、やはりそういう人でありまして髪の毛を切らずに自分の持っているレコードと資材で始めたのが烏山ロフトなんですね。京都の拾得が1973年、磔磔がライブを行うようになったのも1975年。そういう意味では70年代のサブカルの中でライブハウスというのは、重要な場所としてありました。西荻ロフトがデビューだった人の曲をお聴きいただきます。