ファーウェイ事件に見えてくる「物量のハイテク戦争」と日本の立ち位置
「元気の出る格差」と「元気を失う格差」
どうしたらその資質を保ちうるのか。 アメリカ、中国、インド、ロシアは、かなりの「格差社会」である。ヨーロッパ北西部や日本と比べて、富裕層と貧困層の差が大きく、その格差がエネルギーとなってもいる。 日本では「格差は悪」ということになっているが、まったく差のない均質社会では活力が出ないだろうし、面白くもない。二つの物体に温度差がなければ熱は移動しないものだ。格差にも、良い格差と悪い格差があるのではないか。 たとえば著名なマンガ家も、初めは小さな四畳半に共同で住み込んで布団の上にちゃぶ台を置いて作画し眠くなればそのまま眠るというような生活だったが、売れ出すとともに2DKから3LDKへと移っていく。しかし成功すると昔の四畳半が懐かしい。悲惨ながらも夢も希望もあったからだ。この格差は元気が出る格差である。一方、相当数の餓死者が出る貧困を抱えながら、外国から自家用ジェット機で歌手を呼んで豪華な結婚式をあげる金持ちのいる国もある。同じアラブ世界でも、石油の出る国と出ない国では大きな格差があり、出る国の人々は湯水のごとく金を使う。こういう格差では元気を失う人の方が多いのではないか。 「元気の出る格差」と「元気を失う格差」を区別すべきではないか。そして格差間の流動性を良くし、下から上への上昇エネルギーを社会全体のエネルギーに転換すべきではないか。明治以後しばらく、また第2次世界大戦以後しばらくの日本はそういう社会だった。貧しくとも元気であった。努力によって格差の階段を駆け上がれた。 今後、外国人労働者が増えていくなら否応なく、さまざまなかたちの格差が浮かび上がるだろう。今の日本人も、内部に格差を抱え込んだ社会構造に慣れておく必要がある。どこを切っても同じ顔の日本人という金太郎飴社会ではもう国際的に通用しない。 文化とは変化するものである。逆にいえば時代に合わせて変化しなければ陳腐化するものである。しかし失ってはならないものがある。今後日本が多重かつ多様な社会に変化してもその核として持続すべきものは、「精妙文化」の根源として美意識とその精神エネルギーである。