ファーウェイ事件に見えてくる「物量のハイテク戦争」と日本の立ち位置
クオンティティ(量)よりクオリティ(質)
こう考えてくると日本の立場がハッキリしてくる。情報の物量戦争に参加するのは馬鹿げているような気がするのだ。 しかし諦めてノーテンキになり、距離を離されすぎてはいけない。常にトップランナーを視野にとらえておく必要はある。 日本が勝負できるのは「量」より「質」である。 「精巧な技術」と「微妙な感性」、僕はそれを「精妙文化」と呼んできたが、16世紀、西欧から初めて日本を訪れたイエズス会の宣教師たちを驚かせた大工技術や刀鍛冶技術の精巧さと花鳥風月の微妙な美意識といったものは、日本文化の本質的性格なのだ。そして最近、それがAIのもっとも弱い点であることに気がついた。これについては別の機会に詳述したいと思うが、おそらく今後、アメリカと中国の、またインドやロシアも参加する情報の物量合戦は、その応用段階において、日本文化の「質」を強く必要とするに違いないというのが僕の考えだ。 振り返ってみれば、黒船の艦載砲という物量に驚いて文明開化に走りだし、ゼロ戦や戦艦大和の製造に、精妙文化による高いクオリティを実現したが、B29からの爆弾という物量に打ちのめされた。戦後、アメリカの物量文化の圧倒の下から、ラジオ、テレビ、ステレオ、自動車、オートバイ、時計、カメラなど、あらゆる工業製品に精妙文化の力を発揮したが、今度は情報技術の物量に置いていかれようとしている。しかし現在、マンガやアニメやゲームといったファンタジックなコンテンツ、あるいは日本料理や和の伝統を取り入れた内装技術や温水洗浄便座などといった生活文化においては、まさに精妙文化の特質を発揮して、他の追随を許さないのも事実である。 日本はこういったものの「クオリティ」を追求しつづけるべきだ。 あらゆる製品に最高のクオリティを求め、生み出す集中力、対象に魂を込める執念に似た精神のエネルギー、日本人は常に原点に返って、この資質を保ちつづける必要がある。