Ken Yokoyamaが語る、90年代パンクの原風景「ライフスタイルの変化が鍵だった」
ゲット・アップ・キッズとの対バン秘話
― 実際にカバーしてみて意外な発見があった曲はありますか。 どの曲にもあったな。やっぱ、聴いてるのと自分たちで鳴らすのとで全然違うっていうかね。レコーディングも難しかった。 ―一番難しかったのは? 演奏面ですごくハードルが高かったのはサタニック・サーファーズ。複雑でさ。あと、スーサイド・マシーンも難しかったかな。(ゲット・アップ・キッズの)「Holiday」も難しかった。あの曲は原曲の音数がすごく多いのよ。それを4人でうまくまとめるのがけっこう難しかった。どれも意外な難しさがあったな。例えば、フェイス・トゥー・フェイスもすごくストレートな曲じゃない? でも、ストレートな曲をカッコよくやるのってすごく難しかったりすんの。俺たちのオリジナルだったら「ここでテンポを変えよう」とか、「展開を作ろう」とかあったと思うんだけど、これはずっと3コードのパンクロックだから、そのカッコよさをちゃんと収めるのは難しかったね。 ― ゲット・アップ・キッズ「Holiday」はストレートな選曲で嬉しかったです。この曲が収録されているアルバム『Something to Write Home About』が1999年秋にリリースされてから、翌年2月に渋谷クアトロでハイスタが対バンするに至るまでの盛り上がりとか熱気を思い出しましたよ。 そう、ゲットアップは当時盛り上がったよね。あの日のライブもみんな観たがってたもんね。 ―異常な熱気だったことを覚えてます。 俺、自分のライブはあんま覚えてないけど、俺のリクエストを1曲やってくれたのは覚えてんだよな。 ―何をリクエストしたんですか。 「My Apology」。初日のセットリストに入ってなかったのよ。だから、俺たちが一緒にやった2日目にリクエストしたらやってくれたんだよね。「Kenのリクエスト」つって。 ―客層もちょっと違いましたよね。当時のパンクのお客さんではなかった。 そうね。エモが出始めた頃だからちょっと毛色の違う人はいたかもね。そう言われてみれば、時代が変わっていく感じはあったかも。 ―だから、そういう記憶も横山さんの中にあってのストレートなチョイスなんだなと。 そうだね、(1stアルバム『Four Minute Mile』収録の)「Don’t Hate Me」じゃないんだよ。ここはもう、「Holiday」でいくっきゃないっしょって気持ちだった。その前に、ゲット・アップ・キッズは90’sパンクに入るのか入んないのかっていう議論がバンド的にはあったな。JunちゃんとMinamiちゃんは消極的だったけど、EKKUNは世代じゃない? だから「やりたい!」って。 ―確かに、今作で最も「この選曲はどうなんだろう?」ってなるラインはここですよね。 そうなんだよね。あとはブリンク(182)。ブリンクは90’sパンクなんだけど、やるかやらないかっていう視点で言うとね。やっぱり、みんなはブリンクっていうとものすごく売れてからの印象が強いと思うけど、俺からすると一緒にツアーした96年のイメージなのよ。知り合ったときは普通に90’sパンクの一員でさ、先輩のテン・フット・ポールに気に入られようと一生懸命になってた。なんかそれが未だに忘れらんなくて。あと、彼らはハイスタより下の世代のバンドに与えた影響がすごく大きかったからピックアップしたんだよな。 ―パンクの歴史における重要性もセレクトに影響を与えていたんですね。でも、根っこにあるのは……。 自分やMinamiちゃんとそのバンドの関わりかな。 ―そこのすり合わせは難しかったんじゃないですか。横山さんとMinamiさんでは見ていた景色が違うじゃないですか。 でも、メインは俺が考えて、あとは俺がMinamiちゃんにこういうのはどうか、とかMinamiちゃんはあの時どうだったか、とかそういった話をしながら決めてった。「基本、KENさんがやりたいのでいいんじゃない?」って言われてたんだけど、俺がやりたかったヴァンダルズの曲は一度やってみて「違うね」ってなったな(笑)。ペニーワイズはやってみたけどシックリ来なかった。 ―ああ、入ってないなとは思いました。 あのスピード感とかタイム感ってペニーワイズならではのものでさ、カバーしてもカッコよくなかったんだよな、やりたかったんだけどね。俺、未だにペニーワイズのTシャツ着てるもん。あのバンドが出てきたときはセンセーショナルだったもんな。 ―入ってないバンドでいうと、一番気になるのはグリーン・デイですよ。なんで入ってないんですか。 議題にはあがったよ。みんなも実はやりたかったと思うの。ただ、俺はこのメンツの中にグリーン・デイを入れると作品自体がちょっとぼやけるなと思って。 ―それはどういう意味で? なんだろうね……? あの人らは違ったタイプなんだよね。90’sパンクではないんだよ。オフスプリングはアリだったけど、グリーン・デイはナシだったんだよな。90年代に初めて一緒にツアーした頃にはもう、あの人たちはパンクを見限ってたんだろうな。 ―そうだったんですか? うん、当時、「Basket Case」とかで売れてさ、ギルマン(サンフランシスコにある、パンクロックの聖地とも言われるライブハウス924Gilman street)を出入り禁止になってさ。それでちょうど「ギルマンなんかには戻らねえ」っていう曲を歌ってた頃に一緒にツアーをしてたんだよ。 ―一緒にツアーをしたり、近いところにはいたものの、今作のコンセプトからはちょっと外れていたんですね。このラインナップって当事者の横山さんにとっては憧れの90年代ではないじゃないですか。 ああ、そうだね。 ―今回こうやって作品をつくってみて、横山さん自身も90年代パンクの歴史を作った1人なんだということを改めて考えたりしましたか。 うん、考えたよ。だって、友達のバンドが多いし、俺らも同じ時代に同じようなサウンドで同じような活動してたわけで。でも、こうやって彼らの曲をプレイすると「すげえな」って。豊かな音楽だなと思った。パンクっていうと速いものを想像する人が多いだろうけど、実際はその中にいろんな要素が入ってるんだよ。90’sパンクっていい音楽だなって改めて思いながらやってたかな。 ―時代の当事者から見て、この時代のパンクってどういうものだったと思いますか。 70年代から80年代にかけてオリジナルパンクっていうものが出てきたじゃない? そのときはファッションのほうが強かったのよ。なぜかというと、当時のバンドにはそんなに演奏技術も作曲技術もなかったから。ただし、それだけでは片付けられないようなものすごい衝動と魅力があって、それで一大シーンを築いたわけ。それが過激化したのがハードコアパンクと言われるもので、オリジナルパンクからスピードアップして。バンドごとに違う主張があって衝突することもあったと思うんだけど、初期パンクのシーンとハードコアパンクのシーンっていうは地続きで、ものすごく強烈だったと思うんだよ。 ―なるほど。 で、90年代のパンクっていうのは突然変異でさ、この時代の人たちは初期パンクもハードコアパンクもものすごく好きなんだよ。だけど、ライフスタイルが圧倒的に違うんだよね。てことは、格好とか主張も違うわけで、それが90’sパンクのキーだと思うんだよ。