パワハラでクビになった名門ラグビー部元監督が海外で見た、選手と指導者の対等な関係性
それなのになぜ、たった1回の失敗でこんな目に遭わなければならないのか――。 あの頃は、そんなことばかり考えていた。 さらには、ずっと私を支えてくれる味方だと思っていた人たちまでが、手のひらを返したようにネガティブキャンペーンをするようになった。 すべてが怒り。周囲すべてが敵だった。 悪いときには悪いことが重なるものだ。私のかけがえのない恩人であり恩師である、佐伯弘治学園長が急逝されたのだ。 私が流経大柏高校ラグビー部の創部以来、同チームを日本でも有数の強豪に育て上げることができたのも、佐伯先生の叱咤激励あってのことなのだ。 佐伯先生は私を心から信頼し、信用してくれた。その恩に報いたいという思いがあったからこそ頑張れた。 だが、私が体罰問題について謝罪に伺った頃には、佐伯先生の容態は非常に悪化していた。 病室も面会謝絶で、とうとうお目にかかることができなかった。 恩返しをするどころか、謝罪さえできぬまま、佐伯先生は他界されてしまったのだ。 ● 動揺した次女が高校受験に失敗 「私の人生を狂わせたのはお父さん」 あの頃、自分が何をしていたのかを思い出そうとしても、まったく思い出せない。 おそらく何もしていなかったのだろう。
ただ、いつもイライラしていて過去を悔やんだり、「なぜ自分の思いはこうも理解されないのか」と、変えようもない世間の批判や中傷に憤っていた。 先の見えない暗闇の中にいるような心境だった。 目の前には何も見えず、一点の光もない。怒りや憎しみ、そして「なぜ俺がこんな目に遭わなければならないのか」という被害者意識があるだけだった。 心身ともにボロボロになり、体も壊した。高いときには血圧が200近くまで上がり、ストレス性の気管支喘息から難病指定にもなり、手術まで行った。 自分の名前をいうことも、顔を出すのも嫌だった。外出時には目出し帽をかぶり、顔がわからないようにしていた。 とくに、自分の名前は絶対に口に出したくなかった。ネットを検索すれば、私を誹謗中傷する記事や書き込みが、たくさんヒットするだろうからだ。 そんなみじめな日々を、私は過ごしていた。 さらには、ショックを受けた次女が高校受験に失敗した。「私の人生を狂わせたのはお父さん」とまでいわれたが、これはさすがにきつかった。 このように、「マスコミで叩かれた失敗者」という十字架を背負わされ、私はずっと社会的な制裁を受けてきた。