「ソ連」崩壊から大国「ロシア」の復活 忘れられつつあるソ連後の歴史
■ロシアの混迷
これに拍車をかけたのは、金融市場の規制緩和にともなう資金の急速な流入や、社会主義経済のもとで物価の安定のために導入されていた価格統制の撤廃によるインフレでした。 IMFの統計によると、1993年にロシアのGDP成長率はマイナス8.7パーセントを記録し、消費者物価は約875パーセント上昇(World Economic Outlook)。さらに1998年には、東南アジアのタイを震源地とする「アジア通貨危機」がロシアにまで波及。その結果、ロシア政府は1000ルーブルを1新ルーブルとするデノミ(通貨単位の変更)を実施せざるを得なくなったのです。 これらの経済的混乱は、エリツィンと西側諸国の二人三脚の経済改革のなかで発生したため、国民の間では冷戦終結直後にみられた西側に融和的な雰囲気が徐々に失われていきました。規制緩和を機に先進国企業の投資が相次ぎ、ロシアの豊富な天然資源の開発が西側主導で進んだことも、反欧米感情の高まりに拍車をかけました。 その一方で、西側諸国と結びついたオリガルヒがエリツィン陣営に選挙資金を提供するなど政権と癒着した結果、汚職が蔓延。ソ連末期にゴルバチョフの「新思考外交」を「弱腰」と批判したエリツィンは、結果的に欧米諸国との蜜月のなかでロシアの混迷を深めたといえます。
■「強いロシア」への転機
こうして、ソ連崩壊後に混迷を深めたロシアでは、「強い指導者」を求める機運が高まっていきました。このなかで1999年8月、エリツィンによって首相に任命されたのが、現在のロシア大統領であるウラジミール・プーチンでした。 ソ連の諜報機関KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチンは、それまで一般の人々にはほとんど無名でした。その人気と支持を一気に高めたのは、ロシア南部チェチェンのイスラム教徒による分離独立運動の鎮圧にありました。 ソ連崩壊にともない、やはりイスラム圏のカザフスタンなどが独立するなか、チェチェンでも分離独立要求が活発化。イスラム過激派の流入によって独立運動は徐々に暴力的なものとなり、1994年にはロシア軍と本格的に衝突。その後のテロの頻発は、ロシアの混迷を深める一因となりました。 これに対して、プーチン首相は戦闘機まで用いてチェチェンの分離独立派を鎮圧。「強いリーダー」として一躍支持を集めたプーチンは、1999年の大晦日に「健康上の理由」で退任したエリツィンの後任として大統領に就任したのです。