「ソ連」崩壊から大国「ロシア」の復活 忘れられつつあるソ連後の歴史
■ソ連崩壊への道
中央での混乱はソ連各地に波及し、なかでも歴史的に反ロシア感情の強かったバルト三国は1990年に相次いでソ連からの離脱と独立を宣言。最終的にそれを認めざるを得なかったことは、国家としてのソ連の形骸化を象徴したといえます。 急速な改革とそれがもたらした混乱は、保守派からの巻き返しを呼びました。1991年8月には軍によるクーデタが発生し、ゴルバチョフは軟禁され、首都モスクワの中心部は戦車部隊に占拠される事態となったのです。 この際、軍を説得し、クーデタを収束させたのは、同年6月に初めて行われたロシア共和国大統領選挙で当選していたボリス・エリツィンでした。その結果、ゴルバチョフの求心力はさらに衰退し、入れ違いにエリツィンが勢力を増しました。 ロシアはまだ当時、ソ連を構成する共和国の一つでした。主導権を握ったエリツィンは1991年12月、「ロシア共和国のソ連からの脱退」を宣言。ロシアを欠いたソ連は有名無実で、これによってソ連は事実上消滅し、それと同時に緩やかな国家連合である独立国家共同体(CIS)が発足しました。ソ連の立て直しを図ったゴルバチョフは辞任し、最初で最後のソ連大統領となったのです。
■経済改革の加速
エリツィンのもとで発足したロシア連邦共和国は、国連の議席や核兵力などソ連の国際的地位を実質的に継承。西側諸国とも良好な関係を築きました。 その一方で、ゴルバチョフ時代に改革の遅れを批判して台頭していたエリツィンは、1992年からゴールドマン・サックスなど欧米の金融関係者を経済顧問に迎え、IMF(国際通貨基金)などからも助言を受けて計画経済からの離脱を推進。国営企業の民営化、金融・労働市場の規制緩和、公共サービスの有償化などの改革に着手しました。 ソ連末期に既に財政赤字が肥大化していたことから、これらは避けられないものだったといえます。しかし、「ショック療法」とも呼ばれた急激な経済改革は、ロシアにとって大きな痛みをともなうものでした。 国営企業の民営化では、株式を国民に配分する「バウチャー方式」が採用されましたが、多くの人はその意味を理解していませんでした。そんななか、西側諸国と深い関係をもち、人々からバウチャーを安く大量に買い集めた一部の投資家は新興財閥(オリガルヒ)として台頭。共産主義国家ソ連の崩壊から間もなく、ロシアでは貧富の格差が拡大したのです。