「“自分に刃を向ける”作品に惹かれるんです」漫画家・鳥飼茜が愛読する活字作品【私の愛読書インタビュー】
鳥飼 いやもう、とにかくおもしろくて。ボラ・ボラ島を舞台に、ミス・ユニバースを10人の男で奪い合うという、恋愛リアリティーショーを題材にした作品なのですが、国籍を超えた多様性をこれほど生々しい当事者感覚をもって描けるのは、安堂さんだからだろうなと思います。とにかく、鮮烈なシーンの連続なんですよ。 印象に残っているのは、参加者たちが恋愛模様を振り返って別室で各々セルフ解説するところ、よくあるシーンですよね。恋愛リアリティーショーは、海外ではとくに下品で扇情的な発言を煽るところがあって、センテンスを過剰に短く区切って、執拗に演出される。私自身が、編集された動画を見慣れているからこそ、いかにもポップで毒々しく「映えた」映像がありありと思い浮かびました。 ――当事者感覚、というのは、近年、物語において重視されることのひとつですが、鳥飼さんは作品を描く上で意識していることはありますか? 鳥飼 自分が当事者感覚を持ててないことには、どんなに配慮した描き方をしたって、想像が及ばないことがたくさんあるし、責任を取ることは難しいと感じます。女性であるということで、社会で抑圧を受けることはあるけれど、日本人だとわかる見た目をしていて、性自認も肉体に添った私は、ある意味で多数派です。社会に浸透している「暗黙の了解」を、それが特権であるということにも気づかずあたりまえのように描いてしまうことが多々あるでしょう。私は、少数派であることのおそろしさを、知らないも同然なんです。 だから自分と立場の異なる人のことを、無視せず想像する努力はやめないようにしたい、と思っています。そして、多様性という言葉だけが先走りしがちな現代日本で、少数派から見える景色や違和感を臆することなく作品に落とし込んでいく安堂さんの姿勢には、作品を読むたび、はっとさせられます。 ――『DTOPIA』で、とくにはっとさせられたところは、ありますか? 鳥飼 私、海外の恋愛リアリティーショーを見るのは好きなんですよ。だから冒頭の、具体的かつ魅力的な番組の説明からして、ぐっと引き込まれてしまったのですが、そのショーで描かれる「欧米のセレブ文化」は、私にとってはただの憧れ。エンタメとして消費する以外の関わり方を知らないものです。でも、『DTOPIA』ではそこに、人種間の上下関係が土台として強固に敷かれていること、それぞれの階層に立つ人間の傲慢さと卑屈さ、それらがすべて絡み合った人間の姿が物語に縫い込まれていて、これまで画面を通して見てきたものを、はるかに俯瞰してとらえることができました。 ――先ほど「暗黙の了解」という名の特権、という話をされていましたが、「だってそういうものだから」では絶対に終わらせまいとする、強固な意志を感じますよね。 鳥飼 そう。世界とは最初から「そういうもの」であると呑み込むしかない人間がほとんどのなかで「いや、それおかしくない?」と臆することなく笑い飛ばすことができる。安堂さんの、その姿勢は本当にかっこいいと思うんです。とくに、日本人にとっては盲目的に「優れたもの」として映っている白人文化に、恋愛リアリティーショーという巨大な虚構を通じて問題点には真っ向からNOを突きつける、それを日本語でクールに描ける人は、そうそういないと思います。 ――安堂さんは、デビュー作からずっと、そうした少数派のリアルを、臆することなく書き続けていらっしゃいますね。 鳥飼 「それっておかしくない?」と言えるのは、文化的背景をしっかり理解しているからなんですよね。「そういうものだから」で済ませてしまうのは、想像することをやめた証でもある。どちらの態度がかっこいいかは、一目瞭然だと私は思います。ただ、安堂さんの問題意識が明確なのはずっと変わらないと思うのですが、『DTOPIA』ではより、作家としても吹っ切れたような印象を受けたんですよね。 ただ「そんなのおかしい!」と怒るのではなく、次から次へと異色の展開を繰り広げるキャラクターたちの暴走、読み手を振り落とさんばかりのスピード感にも痺れました。こういう作品を読むと、いかに自分の世界が限られた価値観だけで構成されているのか、痛いほど突きつけられます。