経済大国へとひた走った日本が〝置き去り〟にしたもの「水俣病は終わっていない」 患者らの行動は、市民が巨大企業や国と闘う先駆けになった
しかし、今年9月に大阪地裁がチッソ、国や熊本県の責任を認め、128人の原告全員を水俣病と認定した判決は、50年前の熊本地裁の第1次訴訟判決と共鳴していると思った。この二つの水俣の裁判では、裁判長が水俣の現地を訪れた。患者ひとりひとりの声を聞き、その存在を肯定した判決だった。 × × × ▽犠牲者500人の遺影。「どう生きるか」を考える 水俣病は、今も患者と認められずに救済を求める訴訟が各地で続いている。このうち、9月の大阪地裁判決は原因企業チッソ、国や熊本県の責任を認め、128人の原告全員を水俣病と認定した。ただ、チッソ、国、県は控訴。闘いは終わらない。 今年10月、福岡市の福岡アジア美術館で開催中の水俣フォーラム主催の「水俣・福岡展」を訪れた。もう一度水俣病の歴史を振り返り、栗原さんが語ったその後の当事者運動とのつながりを確かめたかったからだ。 水俣フォーラムは1996年から、水俣病の歴史を写真などで伝える展覧会を各地で開いてきた。今年の「水俣・福岡展」は11月14日まで開催中だ。
展示の終盤、スタッフから声をかけられた。案内されたのは健康被害に苦しんだ犠牲者約500人の遺影を並べたコーナー。「ひとりひとりの声を聞いてください」。展覧会の開始当初から続けられているという。 栗原さんはこのコーナーについて、こんなことを語っていた。 「一枚一枚の写真と対面し、目と目があう。『私がどう生きるか』ということを考えずにはいられなくなる」 患者たちが残した声を、書籍や福岡展のような展覧会を通じて触れ続け、「何度でも思い起こす人が1人でもいれば、水俣病は風化しない」 【取材後記】 水俣病という長い歴史を報道するために、多くのメディアが水俣に支局を置き、専属の記者が日々を記録しているが、共同通信は熊本市にしか拠点がない。それでも患者さんや支援者は、取材に快く応じてくれた。この問題と向き合い、ひとりの人間として自身を省みながら生きてきた方々だからこそ、私たちの拙い問いに答えてくれたのかもしれない。
栗原さんはインタビューの中で、「カノン」という音楽の形式について話してくれた。カノンは、複数の音で同じ旋律を続けざまに奏で、進む楽曲。「ひとつの旋律、それを追いかける旋律、またそれを追いかける旋律というふうにつながっている。(今回の記事には登場しないが)杉本栄子さんとか、川本輝夫さんとか、患者ではない原田正純さんとか、石牟礼道子さんとか、緒方正人さんとか、それぞれ異なる旋律なんだけど、それが前の旋律を追いかけ、つながりを作っていく」。最後に、「この記事も、旋律につながっていきますから」と背中を押してくれた。