経済大国へとひた走った日本が〝置き去り〟にしたもの「水俣病は終わっていない」 患者らの行動は、市民が巨大企業や国と闘う先駆けになった
インタビューに応じてこう語った。「闘争は、立場を超えて生存と尊厳を求める当事者の運動だった」。栗原さんは、水俣で始まった患者自身による闘争が、ハンセン病の元患者による運動や、最近では性被害を告発する「#MeToo」などの先駆けになっていたと指摘する。多少長くなるが、栗原さんの話を以下に記した。 × × × 50年前の水俣病患者らの闘争は、家族が亡くなり、自分も命を落とすかもしれない、生存ぎりぎりのところから立ち上がる当事者の運動だった。だが、ただ生きるということではない。 1959年の「見舞金契約」は人間の尊厳を踏みにじる屈辱的な契約だった。チッソと直接対話しようとした患者の川本輝夫さん=1999年死去=たちは、チッソの東京本社に乗り込み、社長と膝をつき合わして話をしようとした。社長に、チッソ社長としてではなく、自分たちと同じ1人の人間として謝罪することを求めた。 屈辱をバネに、人間がただ生きるということではなく、いかに生きるべきかという問いをぶつけていった。患者だけでなくチッソ側も、一人一人が人間なんだということを取り戻そうとしたのだと考えられる。
国全体が成長して豊かになることを求める社会において、声を封じられてきた人々の運動はほかにもある。性被害を告発する「#MeToo」(「私も」の意)や、ハンセン病患者、障害者などの運動も、当事者が苦しみの中から立ち上がって言葉を発し、社会を変えようとした。「当事者運動」という言葉があるが、水俣病闘争はその先駆けと言える。 福島県で原発災害を訴える住民の運動も当事者運動のひとつ。水俣フォーラムが2011年11月に福島県白河市で開いた展覧会に、災害を被り、脱原発や放射能被害を訴え、活動するお母さんたちが大挙して訪れた。寄せられた感想に、「水俣で起こったことと福島で起こったことはそっくりだ」という言葉があった。 水俣病闘争が提起したのは、市民社会が一人一人を尊重して初めて、被害を受ける人の置かれている状況を知り、自分が被害者にもなり得るし、絶えず加害者でもあると気づくということ。最高裁が昨年6月、東京電力福島第1原発事故を巡る集団訴訟で、国の賠償責任を認めない判決を言い渡した時には、お母さんたちの声をきかず、水俣病の教訓を学んでいないのではないかと感じた。