経済大国へとひた走った日本が〝置き去り〟にしたもの「水俣病は終わっていない」 患者らの行動は、市民が巨大企業や国と闘う先駆けになった
この日も、もつれる声を振り絞って訴えた。「(勝訴して)うれしかったが、病気は治らない。これからの生活が不安だった」 1973年の判決は、チッソの過失・責任を認めて総額約9億3730万円の賠償を命じた。見舞金契約は公序良俗に違反し「無効」とも指摘。判決理由を要約するとこうなる。「工場廃水には危険な副反応生成物が混入する可能性が大きいのに、チッソは漫然と流した」 当時16歳だった坂本さんの知能障害、運動障害などの症状も認め、将来においても他人の介助を全く必要としない生活を営むことは考えられないとした。チッソは控訴せず、判決は確定したが、「まだ苦しんで生きている人がいる。水俣病が終わったと思わないで」 ▽「大企業は傲慢になる」 原因を明らかにしようと声を挙げたのは患者だけではない。患者の訴えに共鳴した人々が、弁護団を支えようとデータを集め、法理論を構築する「水俣病研究会」をつくった。その1人にチッソの労働組合で執行委員だった山下善寛さん(83)もいる。
山下さんはチッソに詰め寄った患者たちが忘れられないという。病気で働けなくなり、雨漏りのする家での生活を強いられ「体を元に戻せ」などと訴える姿は「人間としての叫び」に思えた。「加害者側に加担した」という自責の念もあった。工場で原因物質を目の当たりにしていたのに、外部に話すことができなかったからだ。 社員でありながら、チッソの株主総会に患者を背負って乗り込んだ。解雇も覚悟していた。「大企業は傲慢になる。豊かさより命が大切。『山下さんは強い』って言われるけどそれは違う。真実を貫く患者さんの芯の強さに学んだ」 メチル水銀を含んだ工場のヘドロを閉じ込めた水俣湾の埋め立て地には、慰霊碑が建てられ、周囲にはさまざまな形の小さな石像が置かれている。患者を背負う石像は、山下さん自身という。自分の手で作り、ここに置いた。手足のしびれなど水俣病特有の症状に悩まされながら、今も支援活動を続ける。「一生、水俣病を背負い続ける気持ちを忘れない」