経済大国へとひた走った日本が〝置き去り〟にしたもの「水俣病は終わっていない」 患者らの行動は、市民が巨大企業や国と闘う先駆けになった
▽「加害や被害の立場を超えて一緒に考えよう」 話を聞くほど、50年前の水俣病闘争をより詳しく知りたくなった。法廷以外で患者に寄り添い、闘った人には、作家で「苦海浄土」を発表した石牟礼道子さんや、近代史家の渡辺京二さんがいるが、2人とも亡くなっている。そこで「水俣病闘争史」を出版した元新聞記者の米本浩二さん(62)を訪ねた。本では、第1次訴訟と、同じ時期の患者たちの運動をつづり、中心的な存在として石牟礼さんと渡辺さんも描いた。今も、書籍や講演を通して闘争を語り継いでいる。 渡辺さんは、第1次訴訟が提起される直前の1969年4月、石牟礼さんの要請を受け、「水俣病を告発する会」を設立した。目的は、司法を介さずチッソとの直接交渉を求める患者の支援。当時のデモや座り込みでは「怨」と書かれた旗がはためいた。石牟礼さんのアイデアだ。 米本さんによると、怨には「被害について人に不満・不快の感情を持つ」のほか、「心に憂えることがあって、祈るような心情」の意味がある。会の活動は共感を呼び、全国に広がった。
晩年の2人を何度も訪れたという米本さんは、怨旗を考案した石牟礼さんの思いを、著書の中で語っている。「水俣病はなぜ発生したのか、発生を許したものは何なのか。患者とともに悶えよう、加害や被害の立場を超えて一緒に考えよう、と道子は言っているのだ」 生前の渡辺さんは闘争について、米本さんにこう表現した。「前近代による近代への異議申し立て」。経済成長を組織的に進め、個人が抑圧されていた時代に、個が目覚め、自分や社会とは何かを問いかけるようになった。米本さんはそう解釈している。 米本さんは、2人が日常を大切にすることを訴え、晩年も闘い続けたとみている。 「2人の足跡を見ていると、社会の流れに抗い難い時でも、立ち止まって考えれば 少しずつ道が開かれるのではないかと思う。一人一人にそれぞれの戦い方がある」 ▽水俣病は当事者運動の「先駆け」だった もう1人、会いたい人がいた。「証言 水俣病」や「『存在の現れ』の政治――水俣病という思想」など、多くの著作を持つ立教大の栗原彬名誉教授だ。水俣病の教訓を伝える認定NPO法人「水俣フォーラム」の理事長を10年以上務めた経験もある。