経済大国へとひた走った日本が〝置き去り〟にしたもの「水俣病は終わっていない」 患者らの行動は、市民が巨大企業や国と闘う先駆けになった
工業廃水に含まれた「メチル水銀」に汚染された魚介類。それを食べた人々が、けいれんや言葉のもつれ、感覚障害などの症状を起こし、苦しみながら多くの人が亡くなった。水俣病は、第2次世界大戦後の高度経済成長期の負の遺産で、「公害の原点」とされる。公式に確認されたのは1956年5月。当時、熊本・水俣湾では人々が原因不明の病気に苦しみ、5歳と2歳の幼い姉妹の症状がこの時に保健所に届けられたのが始まりだ。それから67年たったが、救済を求める訴訟はいまだに続いている。 20代半ばの私たちにとって水俣病は、「4大公害病のひとつ」として歴史の授業でただ暗記しただけ。しかし、記者として熊本に赴任し、今も病気に苦しみながら闘う患者と、人生をかけて支援する人々の姿を見て、自分の無知を恥じた。 記者としてどう向き合うべきか、どう報じるべきか。日々話しあい、取材を続けた。関係者に話を聞くうちに、この問題が水俣にとどまらず、その後の日本の市民運動に大きな影響を及ぼしていることも分かってきた。この問題は単なる「過去の出来事」ではなく、市民一人一人の今につながっているという。それは大きな驚きだった。(共同通信=小玉明依、小松陸雄)
▽「まだ苦しんで生きている人がいる」 熊本県の最南端に位置する水俣はかつて、製塩業と漁業が中心だった。近代産業を興そうと、チッソの化学工場ができたのは約115年前のことだ。海に工場廃水が流され、原因不明の病にかかる人が続出した。 調査した熊本大学の研究班は「水銀化合物が魚介類を汚染した」と明らかにしたが、チッソは因果関係を認めず、排水を止めない。患者には補償金ではなく低額の「見舞金を支払う」という契約を1959年に結んだ。 当時は「生産力が増せば国全体が豊かになる」と言われた時代。チッソの企業城下町で被害者は声を封じられた。政府の動きもにぶく、原因が工場から出たメチル水銀との見解を出したのは、公式確認から12年後だった。 しかし、チッソは責任を認めず、正当な補償をしようとしない。患者ら112人は1969年、チッソに損害賠償を求め熊本地裁に提訴。「第1次訴訟」の始まりだ。 今年はこの訴訟の判決からちょうど半世紀。私たちは「50周年」の特集記事を書くべく、この時の原告で、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(67)を訪ねた。体調が悪化し、車いすが欠かせなくなった今も、公害の悲惨さを伝えている。