“建築大革命前夜”産業技術とモダニズムの時代-日本工業倶楽部会館と團琢磨
さて工業倶楽部は、福沢諭吉が明治期に結成した「交詢社」にも似た財界人の交流の場で、のちの経団連、日経連などの経済団体につながる。「工業」という言葉を冠したのは、日本の産業の主力が、それまでの製糸業(養蚕農家が転じた業者が多く農業に近い部分があった)などから機械力を駆使した工業に転じたことを示しているのだろう。 初代理事長は三井の総帥、團琢磨であった。 團は、マサチューセッツ工科大学の鉱山学科を卒業し、東京帝国大学の助教授となり、工部省を経て、三井に移っている。三池炭鉱に英国式のポンプを導入して発展させたのは團の功績で、横河と同様、工学博士ともなっている。 工業倶楽部理事長のあと、日本経済聯盟会(経団連の前身)を設立した。つまり横河も團も、産業技術者であると同時にその産業の経営者であり、新しい技術が、新しい産業を起こし、経済を牽引し、国家を牽引する時代のリーダーであった。資本主義が、工業技術を基幹とする成長期に入ったことを意味する。 その後日本は、第一次世界大戦で得た漁夫の利を背景にして、工業化が進み、都市化が進み、モダンという意味での近代国家への道をひた走る。モダンガール、モダンボーイが銀座を闊歩し、ある意味で頽廃ともいうべき都市風俗が広がっていく。
そしてその反動がやって来る。 大正12年には関東一円が大震災に見舞われ、昭和4年にはウォール街の株価が暴落し世界を大恐慌の波が襲う。昭和6年には満州事変が勃発、また東北地方は飢饉となって、若い娘の身売りが横行した。そして昭和7年、團琢磨は、日本橋の三井本館入り口で、血盟団の一人に狙撃されて命を落とすのだ。 世にいう「血盟団事件」である。 茨城県の日蓮宗僧侶井上日召が、配下の若者に、政財界の大物をターゲットとして「一人一殺」を命じたもので、井上隼之助(日銀総裁、大蔵大臣)と團琢磨が犠牲となった。右翼陣営の大川周明、西田税、四元義隆なども関係し、のちの五・一五事件、二・二六事件の引き鉄となり、三島由紀夫にも影響を与えたとされる。 政治家がテロに狙われることは多いが、経済人が犠牲になるのは珍しい。よほど目立つ存在だったのであろう。この時代、左翼も右翼も、資本主義の急激な進展に対して、極端な社会主義を唱えたのだ。片やデモ、片やテロ。片や国際、片や愛国。異なるのは思想と目的ではなく、行動様式であった。 つまり日本は、この工業倶楽部設立の時から、産業技術とモダニズムの時代へと進み、血盟団事件の時から、軍部独走とテロリズムの時代へと移行したのだ。 時代の振り子が、急速な都市化からその反力に振れ返したといえようか。 それにしても今世間を騒がせている、豊洲移転や森友学園の問題など、右翼も左翼も劇場的な騒ぎばかりで、あの時代のようなリアリズムが感じられない。あの時代のリアルは恐ろしいが、今の時代のアンリアルは情けない。 ちなみに、團琢磨の孫・團伊玖磨は音楽家で、その子・團紀彦は建築家(筆者も交流がある)である。