わが子の死、ペットとの別れ、震災で故郷を失う。すべての悲嘆を等しく分かち合う「グリーフケア」がいま必要である理由
「グリーフケア」という言葉をご存じでしょうか。グリーフは直訳すれば「悲嘆」、さまざまな「喪失」の体験に伴う悲嘆をケアしていく動きのことです。大切な人やペットの喪失のほか、財産・仕事の喪失、いじめやハラスメントによる自尊心の喪失など具体的な喪失のある体験のほか、喪失そのものが不確実な「あいまいな喪失」、たとえば原発事故で故郷に帰れない、別れはないものの認知症で関係性を失うなどの体験も対象とします。 【画像多数】自死遺族、事件被害者、さまざまな悲嘆を抱えた登場者たち トラウマとは何が違うの?とも聞かれますが、グリーフの背景にあるものは愛情・愛着である一方、トラウマの背景は恐怖・脅威だとも説明されます。 このグリーフケアをテーマとしたドキュメンタリー映画『グリーフケアの時代に』が12月1日より全国公開されます。監督の中村裕さんに「なぜいまグリーフケアを取り上げたのか」お話を伺いました。
「グリーフケアとはどのような言葉なのか?」知らないところから取材は始まった
――中村監督は、長い間取材を続けた瀬戸内寂聴先生を2021年に「喪失」なさっています。その経緯でグリーフケアにご興味を持っての企画でしょうか? いいえ、グリーフケアという言葉も概念も、まったく知りませんでした。ぼくはドキュメンタリーのディレクターとして瀬戸内寂聴先生を17年に渡って撮影し続けました。2021年9月に先生が亡くなったあと「撮りためた映像から映画を作らないか」とお話をいただいたのですが、本来なら先生がお元気な間に完成させて「なんでこんなとこ撮ってたのッ」と怒られるはずでした。でも急に具合が悪くなられて、間に合わなかった。映画は『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』という作品となり、2022年5月に公開され、一段落してモチベーションを失ってぼーっとしていたところ、今回の映画の益田プロデューサーから「グリーフケアをやらないか」と声がかかりました。
グリーフケアなんて聞いたこともない言葉でしたが、このお誘いは断りたくなかったのでどんどん巻き込まれていき、さまざまな方にお会いしたり、本を読んだりしているうちに「これはすごく大事なテーマだな」と気づきました。やってみようと決心したのが2022年7月。当初ケーブルTVの番組として企画されたので予算規模が小さく、インタビューベースにしようとリサーチを始めて、2022年8月には最初のロケに出ています。 ――リサーチをすすめるにつれて、だんだん「ぜひやりたい」という気持ちになっていったのでしょうか? とんでもない、その逆で、知れば知るほど断りたくなりました。だって、間違いなく最初から最後までつらい体験を語ってもらう作品です。ぼくはどういう顔でそのつらい話を聞いていけばいいのか。相手の方は、きっと話してるうちに思いがよみがえり、泣いてしまうこともあるでしょう。そんなときぼくはその人の前にどう座っているのか、想像もつきませんでした。ドキュメンタリーではそういうとき「あなたの声を多くの人に伝えたいんです」と言ったりもしますが、そういう常套句で済ませてはならないぞと感じていたのです。 ぼくは日ごろから、どう撮るかではなく、「なぜ撮るか」が大事だと思っています。そして、「なぜこの題材を選ぶのか」を突き詰めないと、「なぜ撮るのか」答えは見つかりません。できあがったあとから考えると、つらい思いを抱えて答えてくれたそれぞれの人たちの、さまざまな言葉の分だけ、いろいろな人に届く作品になったと感じます。作中、上智大学グリーフケア研究所元所長の島薗進先生が「人間は生きている限り喪失の連続であり、その分だけグリーフ、悲嘆がある」と語ります。でも、悲嘆にどう対応するかは個人によって違います。ですので、この題材をさまざまな人が登場するインタビュー形式で撮った意味はそこにあったと感じます。 ――お話を聞き続けるうちに、さまざまな「グリーフ」に対するベターな対峙の道が見えていったのでしょうか? いいえ、結局、何度取材を重ねても、最後までまったくわかりませんでした。ただ、今回は取材を進めるにつれて「癒し」という言葉を安易に使うのはやめようという気持ちが固まりました。癒したり癒されたりって、そんなにライトじゃないだろうという思いが生まれてきたんです。悲しみは人によって全然違うから、「あなたを癒してあげようというような気持ちで他人に接すると悪い方向に行くだろう」と感じられたのです。 みなさんのお気持ちを聞いていくと、やはり誰かの悲嘆に向き合うことはそう簡単ではありません。かなりの訓練が必要です。とにかく一緒にいてほしい、寄り添ってほしい、言葉なんかかけてくれなくていい、ただ自分の悲しみを聞いてほしいという人たちにちょうどよく向きあうのは非常に難しいことです。 そんな中、自分も悲嘆を抱える人が一生懸命訓練して、誰か別の人の役に立とうとする姿に触れ、魂の進化と呼ぶべきものがこの世にあるならこれだなと感じました。大阪教育大学附属池田小学校事件で娘さんを失った本郷さん、がんサバイバーかつ自死遺族の三井さんらは、喪失の渦中ですでに「この体験が他の誰かの役に立つかもしれない」と考え始めています。そんなことおじさんには思いつきません、ぼくならひたすら打ちひしがれていると思います。