わが子の死、ペットとの別れ、震災で故郷を失う。すべての悲嘆を等しく分かち合う「グリーフケア」がいま必要である理由
悲嘆の本質とは「愛」である…一瞬理解できないこの概念がやがて腑に落ちていく
――ドキュメンタリー関係者なら遺族コメントなんて取り慣れているだろうと思われがちですが、そんなことはないんですね。 ないです。事件取材の経験もあまりないですし。ドキュメンタリーで相手が聞いてほしくないことを敢えて聞いて深層心理に切り込むことはありますが、この作品はそんなレベルではない、傷口を深くえぐるようなことばかりを聞くんです。質問事項を事前にお渡ししてはいますが、それでも「これを聞いていいのだろうか」「どんな顔をして聞いたらいいのだろうか」と迷います。最終的には自分の居住まいを常に正して向き合わざるを得なかった。 相手を見つめる側であるはずの自分が、逆に人としての本質の部分まで見透かされているような感覚が常にありました。どれだけ真剣にいまこの瞬間向き合っているのかを問われている感覚です。質問するこの声のトーンひとつも迷いながらです。いまこの人と真剣に向き合わないとこの質問そのものが成立しない、ただ質問を聞きましたというだけでは絶対にダメだという緊迫感に追いかけられていました。 ――そんな数々の取材は当時に、悲しみの本質がじつは「愛」だという話に納得していく過程でもあったそうですね。 はい、事前にいろいろ学習する中で「悲しみの根底、本質には愛がある」という言葉に触れ、どういうことなんだろうとずっとひっかかっていました。愛というと、日本語では男女の恋愛を想起しますが、実際には親子の愛、友人の愛、ペットへの愛、いろいろな愛の形があります。ゆえに、何であれ失うことは悲しい。今回の大きなテーマは喪失の背景に等量ある愛です。そして、悲しみの本質に愛があったと気づくことから、みなさんそれぞれに立ち直るきっかけが見つかっていくのです。 明治期、海外から入ってきた言葉を日本語に訳すとき、旧約聖書に書かれたLOVEが何であるか日本人にはよくわからず、「力」と訳した人もいたそうです。愛という概念は、それ以前には流通していなかったのですね。ですが男女間だけでなく、親子の間に流れるこの気持ちも愛だと説明がつき、大切なものを亡くすという悲劇的な体験の中で愛の正体に気づく。それが人の成長につながるのだということは今回はじめて理解しましたし、ぼくにとっては非常に大きな体験でした。 前編では映画の取材に至る経緯を伺いました。つづく後編では中村監督のグリーフと、瀬戸内寂聴先生に「言えなかったこと」を独白します。
オトナサローネ編集部 井一美穂