インドでは「排泄行為」がとんでもなくカッコいい、その姿に「尊厳」を感じた研究者が語る日本との大きな違い
水汲みは、彼らの生活に彩りをもたらす社交とエンターテインメントの時間なのだろう。実際に、彼女らは家を出てしばらくすると、さっと布を外して素顔を見せてくれた(見知らぬ男性が近づいてきたら、彼らはまた顔を隠すのだが)。 彼らは頭に布でつくられたドーナツ状のクッションを乗せ、ヒョイと水の入った壺を乗せると、背筋を伸ばして颯爽と歩いていく。色のない沙漠の世界に、水を運ぶ女性たちの、原色で、ともすれば少しどぎつい色合いの衣装(ラージャスターニー・ドレス)が、見事に映える。多くの写真家たちが狙ってきたフォトジェニックな光景だ。
こうして家に運ばれた3~4個の水瓶が、この家の1日分の水ということになる。家族は、ローターと呼ばれる真鍮の小さなコップを利用して、この水を大事に使っていく。 水洗トイレなど、あるわけがない。彼らはコップで汲んだ水をペットボトルに半分ほど入れ、意気揚々と沙漠の大地に向かって歩いていく。枯れたサボテンや、砂でできた地形の窪みを見つけては、しゃがみ込んでサッと用を足す。 持ってきた水を使って左手で陰部を洗い、使った手もしっかりと洗った上で、空のペットボトルを持って颯爽と帰ってくるのだ。トイレットペーパーなどは存在しない。
■排泄行為がこんなにかっこいいなんて 僕には、この彼らの排泄行為が、なんともかっこよく思えた。トイレに行く姿に尊厳を感じるほど、堂々としている。ヒソヒソと、「ちょっとお手洗い……」などとやっていた僕が住む世界からは考えにくいほど、偉そうなのだ。 最初の頃は、僕はトイレに何度も失敗した。まずは場所選びが下手くそなのだ。どの目線からも逃れられる、絶妙なスポットを見つけられない。ここだ! と思ってしゃがみ込むと、遠くから「おい! そこじゃ丸見えじゃあ!」というお叱りの声が飛んでくる。
周囲の人の気配と、2つの家屋(パーブーの実家と隣家)からの角度が重要なのだ。しかし、一度死角を見つけることができれば、そこが自分専用のトイレとなる(だいたい皆おんなじことを考えるので、皆様の痕跡がしっかりあったりする)。 それにしても、トイレに使う水が、僕には少なすぎた。ペットボトル1本分は、ほしい。直接狙ったスポットに当ててしっかり洗えるようになるまで、背面から前からいろいろと試したが、ダラダラとこぼし、水を無駄にしてきた。シャツやズボンがびしょびしょになった。こぼれた水は沙漠の砂に吸収され、瞬時に乾き切ってしまう。何事も訓練だ。