インドでは「排泄行為」がとんでもなくカッコいい、その姿に「尊厳」を感じた研究者が語る日本との大きな違い
僕はこの世界では、ちゃんと社会化されていない子どものようなものだった。彼らにとっての「あたりまえ」が、通用しない未熟者。そしてそれはまた僕にとっての「あたりまえ」が通用しない異世界。 間違って、怒られて、通じなくて、伝わらなくて、悔しくて、通じた時には嬉しくて……。このプロセスに、僕だけではなく、彼らも飲み込まれていく。 そして彼らも、僕のことを理解し始め、自身の在り方や、自らの「あたりまえ」を相対化し、差異に驚愕し、そして繫がり方を模索していく。
僕もゆらぎ、彼らもゆらぐ。ゆらぎながら、ともに世界を創っていく。この絶え間なく、つらくも嬉しいぶつかり合いの長い長い過程こそが、「異文化理解」などと軽々しく表現できないような、忍耐のいる学びのプロセスなのだ。失敗や怒りは、この豊かな「ゆらぎの空間」を創造するための、最高の入り口なのだ。
小西 公大 :東京学芸大学 教育学部 多文化共生教育コース 准教授