『まんぷく』ヤミ市で見かけたラーメンの屋台には笑顔に包まれた人たちが…日清食品創業に影響を与えた安藤百福<心の原風景>
◆「ビセイクル」 ある晩、布団の中で「はたして、どんなものが材料になるだろうか」と考えていました。カエルの声が聞こえました。庭の池に食用ガエルが棲みついていたのです。 「これは栄養剤の原料になるかもしれない」 早速、若い者を起こして捕獲作業に入りました。捕まえてみると、体長二十センチはある立派な食用ガエルでした。きれいに洗って、内臓を取りました。圧力釜に入れて電熱器にかけました。 となりの部屋には仁子と生まれたばかりの宏基が寝ていました。二時間ほどたつと、ドーンという大音響とともに、圧力釜が爆発し、中身が部屋中に飛び散りました。家の中で一番きれいにしつらえた日本間の天井、鴨居、ふすまなどが、台無しになってしまったのです。 「まあ、何もこんなところでなさらなくても」と、仁子にさんざん絞られました。 残念ながら、カエルは栄養剤にはなりませんでした。よほど悔しかったのか、後日、もう一度料理して食べてみると大変おいしく、「産後で体力の落ちていた家内に食べさせて、格好の栄養源になった」と自慢しました。 研究所では、牛や豚の骨からエキスを抽出し、タンパク食品に加工することに成功しました。ペースト状にしてパンに塗って食べる商品で「ビセイクル」という名前です。厚生省(現在の厚生労働省)に品質が評価され、一部、病院食として採用されました。決して大きな売り上げになったわけではありませんが、百福の食品加工の第一歩はこうして報いられたのです。
◆「日本人はこんなにラーメンが好きなんだ」 同じ頃百福は、将来の仕事に大きな影響を与えた「心の原風景」とでもいうべき二つの出来事を経験します。それをご紹介しましょう。 大阪阪急電鉄梅田駅の裏にはヤミ市がありました。 こごえるような寒い夜でした。百福が通りかかると、二、三十メートルはある長い行列ができていました。一軒の屋台があって、裸電球の薄明かりの下に温かい湯気が上がっていました。ラーメンの屋台でした。粗末な衣服に身を包んだ人々が、寒さに震えながら順番が来るのを待っているのです。そして、温かいラーメンをすすっている人の顔は幸せそうな笑顔に包まれていました。 「日本人はこんなにラーメンが好きなんだ」 当時としてはどこにでも見られる風景でしたが、百福の心に強く焼きつけられたのです。 占領下、アメリカは余った小麦を日本に輸出し、日本人に粉食を奨励していました。厚生省はこれを受けてパンやビスケットを作り、学校給食などに配給したのです。それが百福には不満でした。栄養食の関係で監督官庁の厚生省に出入りする機会のあった百福は、栄養課長の有本邦太郎(後の国立栄養研究所長)に疑問をぶつけました。 「パン食にはスープやおかずがいるが、ほとんどの日本人はパンだけを食べている。これでは栄養が足らないでしょう。東洋には昔から麺という伝統的な食事があるじゃないですか。麺ならスープや具材もついて栄養もあります。同じ小麦粉を使うのなら、なぜ麺類を奨励しないのですか」 有本は困りました。 当時のうどんやラーメンは零細な家内工業で作られていて、大量生産する技術や配給ルートはありませんでした。 「それほど言うなら安藤さん、あなたが研究したらどうですか」と答えました。 百福には麺類について深い知識があったわけではなく、その場はそれで引き下がりました。 「ラーメンみたいなものは研究に値しません」 百福が泉大津に設立した国民栄養科学研究所の研究者に相談してみると、そんな風に一蹴されました。 あきらめざるを得ないのか……。 しかしその日から、屋台の行列と厚生省とのやり取りが百福の脳裏にすみついて離れなくなったのです。 百福、三十八歳。 インスタントラーメンが日の目を見るまで、あと十年です。 本稿は、『チキンラーメンの女房 実録安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
筒井之隆
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