『まんぷく』ヤミ市で見かけたラーメンの屋台には笑顔に包まれた人たちが…日清食品創業に影響を与えた安藤百福<心の原風景>
◆「中華交通技術専門学院」の設立 百福はいったん動き出すと止まりません。 塩作りも軌道に乗らないのに、もうほかの事業を始めたのです。 1947(昭和22)年、名古屋に「中華交通技術専門学院」(昭和区駒方町三丁目一番地)を設立しました。自動車の構造や修理技術、鉄道建設の知識などを学べる学校です。 「今度の戦争で日本は中国に迷惑をかけた。中国は広いから、民生の安定のためには、自動車や鉄道などの交通整備が必要になる。将来、技術協力できる人材の育成をしたらどうですか」と勧められたのです。 勧めたのは運輸、鉄道行政に詳しい佐藤栄作でした。 百福は明治生まれの男らしく、世のため人のためという言葉が好きでした。さらに、お国のためと言われると、ついその気になってしまう人の良さがありました。それで、何度か痛い目にあうのですが……。 学校設立に際しても、「若者に食と職を与えて技術を覚えさせ、将来、自分の力で生活できる道を開かせたい」という思いに突き動かされたのです。 トヨタ自動車の隈部一雄(当時専務)に頼むと、自動車の車体、エンジン、シャーシなどを無償提供してくれました。名古屋大学は十一人の先生を臨時講師として派遣してくれ、佐藤栄作も、全国の国鉄(現在のJR)の駅に給付生募集のポスターを無料で貼るように働きかけてくれました。 給付生には奨学金として月五千円を与えました。あっという間にたくさんの生徒が集まりました。第一期の学生は、在日の中国人と日本人がそれぞれ三十人、計六十人でスタートしたのです。 塩作りと学校と、周囲からいろいろな厚意に支えられて始まった百福の仕事は順調に推移するかに見えました。しかし思わぬ落とし穴が待ち受けていたのです。百福の意図は誤解され、水泡に帰すことになりますが、そのことはまたの機会にお話しすることにしましょう。
◆「日本の復興は食から」 この年の10月7日、仁子に待ちに待った男の子が生まれました。 宏基と名づけました。将来、百福の後をついで、日清食品を世界企業に成長させていくことになるのです。 百福は「日本の復興は食から」というかねてからの思いを忘れていませんでした。交通学院を作った翌年に、泉大津に栄養食品を開発する「国民栄養科学研究所」を設立しました。 街にはまだ浮浪児が多く、栄養失調で行き倒れになる人が後を絶ちません。人々は小麦粉の生地を手でちぎって丸め、だしで煮た水団(すいとん)や、菜っ葉を浮かせただけの雑炊を食べて飢えをしのいでいました。国から配給される食糧では足りず、焼け跡にはヤミ市が立って、たいへんな繁盛でした。 最初に研究したのは病人のための食品です。健康な人でも栄養失調の一歩手前にいた時代です。病気で入院している患者が、病気が原因ではなく栄養不良で命を縮めていたのです。大阪市立衛生研究所や大阪大学の栄養の専門家に協力を仰いで研究を始めました。 百福は新しいテーマが見つかると、我を忘れて没頭してしまいます。
【関連記事】
- 『まんぷく』モデル・安藤百福が結婚時にして生涯守り通した「三つの約束」とは…戦争で事業は灰になるも<ひらめき>は止まらず
- 次々と事業を立ち上げる『まんぷく』モデル・安藤百福が陥った絶体絶命のピンチとは…百福とその妻が不思議な出会いを果たすまで
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子は百福からアプローチを受けるも、なぜか一旦断り…第一次大阪大空襲のたった八日後、戦火の合間を縫うように結婚式を挙げて
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子 幼稚園も小学校も入学式にすら出席できず。高校は休学して働きに…「武士の娘」の意地で生き抜いた幼少期の<極貧生活>とは
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子。父の会社の倒産で育ち盛りなのに食べるものがない…貧しくとも娘三人いれば、家の中に明るい笑いが絶えなかった少女時代