効率化の行き着く先は「死」 サバイバル登山家・服部文祥さん 山や廃村での不便さに見いだす生きる意味
身一つで入山
1996年にK2(8611メートル)を登頂後、手と足のみで岩を登るフリークライミングを経験しました。人間の都合で岩をいじらず、体を鍛え、自分の力にこだわり、工夫して登る面白さ。装備や登山道に頼る登山との「質」の違いに気付かせてくれた。「日本の山をフリークライミングのように登りたい」と思ったことが、「サバイバル登山」のきっかけでした。 【写真】「面倒くさいことを含めて、生きる喜びとして楽しみたい」と語る服部文祥さん 身一つで山に入り、自力で登ることにこだわりたかった。装備や食料はできるだけ持ち込まず、登山道や山小屋も極力使わない。自分でルートを決め、イワナを釣り、鹿を狩り、山菜を採って食料にする。99年以降、そうした登山を数日~1カ月半、延べ千日以上やってきました。北海道が半分、夏秋は東北にも行く。北アルプス北部や南アも好きですね。国外はロシア、インドを訪れました。
都市文明から孤立する
本音を言えば、面倒だと思うこともあります。疲れた時に燃料のまきを拾ったり、鹿の内臓を出したり。それでも面倒くさいことを含めて、私は生きる喜びとして楽しみたい。 経済国家の日本では、お金を払えばおおよそ幸福な人生が送れます。お金で面倒なことを代わりにしてもらい、「楽」をして生きられる。楽は「効率の良さ」なんですね。ただ、楽を追い求めるあまり、効率が生きる喜びを追い越してしまった。 面倒を省略して効率化を突き詰めていくと、最大の効率化は「死」になってしまう。存在の否定です。もちろんボーダーラインがあり、食べることや眠ることはやめられない。誰でもおいしい物は食べたいですよね。私は食材を得ることも、料理することも食べることの一部だと思うんです。 私はイワナや鹿を捕って殺します。命を奪うことに後ろめたさを感じる一方、自力で食べ物を手にする喜びがある。生きることは命を食べること。お金を払って後ろめたさを避けるくらいなら、私は自分で生きる喜び、実感を得たい。そんな生活はお金で水やエネルギーが供給され、食べ物が手に入る環境ではできません。自分を物理的に都市文明から孤立させる方法がサバイバル登山なんです。