上田城復元へ 夢膨らむ 「千田嘉博のお城あれこれ」
今月2日から4日にかけて長野県上田市では、史跡上田城跡を会場に「第18回上田城紅葉まつり」、3日には上田城跡と中心市街地で「第42回上田真田まつり」を開催した。2日は新幹線が一時止まるほどの大雨だったが、夕方には雨はやみ、それ以降はすばらしい秋晴れに恵まれた。そして私もまつりのお手伝いをさせていただいた。(千田嘉博のお城あれこれ)
家康が築城 昌幸に
上田城は戦国時代の1583年(天正11年)に、徳川家康が越後の上杉氏や関東の北条氏に備えて築いた城で、その時は家康に従っていた真田昌幸が居城したことに始まる。その後、昌幸は家康から離反して上杉氏に従ったため、1585年(天正13年)に家康は、家臣に7000の兵を与えて上田城を攻撃させた(第一次上田合戦)。徳川軍は上田城の二の丸まで攻め込んだが、真田軍の反撃と伏兵に総崩れになった。真田氏の大勝利だった。
その後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦で昌幸は、次男の信繁(幸村)とともに石田三成たちの西軍に味方し、徳川秀忠率いる3万8000の軍勢を、上田城で足止めして勝利した(第二次上田合戦)。 ただし、西軍は関ヶ原の本戦で敗れたため、昌幸と信繁は紀伊国の九度山(和歌山県九度山町)へ配流となり、上田城の主要部は破却されて堀も埋められた。 1622年(元和8年)から上田に入った仙石忠政は、埋めた堀を掘り直して上田城を復興し、本丸に七つの 櫓を建てた。現在の上田城の姿は、この時にできた。 そして、上田市教育委員会の発掘成果を分析すると、上田城中心部で、現状と大きく異なる埋没した真田氏時代の堀は見つかっていない。つまり、状況証拠から考えて、現在の上田城の形は、基本的に真田氏時代にさかのぼると結論される。幻の真田氏時代の上田城を、私たちはすでによく知っていたのである。
ガイドツアー盛況
今年の上田城紅葉まつりでは、まず2日の夜に、長野県の県宝になっている本丸の北櫓内でのトークイベント「目指せ!上田城の復元」を行った。通常、夕方には閉まってしまう現存建築の櫓を会場に、未来の上田城の整備を議論するのは、私にとっても特別な体験だった。 翌3日にはトークショー「教えて千田先生!上田城のここがすごい」を上田城の守りの要で、千曲川の分流によってできた断崖「尼ヶ淵」に接した芝生広場で行った。本間香菜子アナウンサーが司会を務め、上田市教育委員会の谷口弘毅主査と私で議論した。その後、私が説明する上田城ガイドツアーも行った。このツアーには「信州上田おもてなし武将隊 真田幸村と十勇士」の真田幸村さんと“真田忍者” 火美さんが駆けつけて、大いに盛り上がった。 そして上田真田まつりには、九度山町をはじめとした真田氏ゆかりの自治体も参加して交流を深めた。上田市は、二つのまつりで文化財としての上田城をただ守るだけでなく、市民が楽しんで、上田城の歴史的意義を考え発信する活用を実現していた。すばらしい知恵だと思う。