「こういう意味じゃない…」都知事選”ほぼ全裸ポスター”がミスリードする「性教育」
誰かが心の血を流していることに気がつける社会に
最後に、ご紹介したい私の大好きな一文がある。 「人間にセクシュアル・プレジャーをもたらす経験は多様であり、(それゆえに)プレジャーがあらゆる人にとって肯定的な経験でありつつ、他者の人権とウェルビーングを侵害して得られるものでないことを保障するのが、性の権利である」 これは、2019年に「世界性の健康学会」が発出した「セクシュアル・プレジャー宣言」の一節だ。性のあり方やプレジャーの感じ方はたしかに多様だ。しかし、なにより重要なのは、他者の人権とウェルビーングを侵害すればもうそれは、プレジャーだなんて間違ってもいえる行為ではないということだ。それを、性の権利は保障してくれている。 一方は快感を感じていても、それを受けるほうは、心を無にして必死に耐える、それは耐えている側の性の権利を侵害することだ。それでも力の差によってその行為を受け続けてきたり、性のタブー視によって権利の侵害について誰にも理解してもらえなかったりと、何も言えずに心で血を流してきた人は、悲しいかなこの社会に無数にいるのだと思う。 もうひとつ、一方がどんなに心で血を流していても、もう一方の快感が達成されていればそれがあたかも「セクシュアル・プレジャー」の達成かのように語られることも少なくない。しかし、どちらか一方がどんなにプレジャーを感じていても、もう片方が苦しんでいればそれは暴力的な行為なのだ。そして、あの都知事選のポスターにもやはり似た構図があったのではないのだろうか? 「性にオープン」とはそういったことの氾濫、伸長を許すものではない。そうではなくてむしろ、それらの暴力を止めるための会話を可能にしてくれるパワーなのだと、私は信じている。
福田 和子( #なんでないの プロジェクト代表 SRHRActivist )