「こういう意味じゃない…」都知事選”ほぼ全裸ポスター”がミスリードする「性教育」
隠さなくていい、は「赤裸々に語ればいい」ではない
まず「性にオープンに」というのは、「いつでもどこでもなんでもかんでも赤裸々に、性のことすべて話そう」という話ではない。「必要なときに、必要なことは、ちゃんと話せるようになろうよ」もしくは「話せる環境を作ることが大事」という温度感である。 なぜ、「性をオープンに」と言われるようになったのかーー。それは、自分の健康や権利に関わることなども含め、性に関わる問題がこれまでタブー視され、結果として「誰かが傷つくこと」が少なくなかったからだ。項目別にいくつか例を挙げてみよう。 【生理へのタブー視】 生理用品は「配慮」や「エチケット」として、購入すると茶色い袋に入れられてきた。そして生理のことは多くの場合、男女分かれた教室で、女の子ばかりに伝えられてきた。人によっては学校や仕事を休まざるを得ないほど苦しいものなのに、そのしんどさを口にすることは「恥」とされ、月経の重さや痛みを軽減してくれるピルに対しても長い間タブー視がべったりこびりついてきた。しかも、生理は自分でコントロールできるはずがない現象であるにも関わらず、災害時の生理用品の配布は長い間後回しにもされてきた。 【避妊へのタブー視】 女性は月経が始まれば妊娠する可能性を持つ。妊娠するからだを持ちながら、自分の勉学やキャリア、からだ、人生を大切にしたいと思うなら、避妊はとても大切で心強い味方であり、お守りだ。そしてそれ以前に、避妊は、最低限の健康と権利の話でもある。日本で避妊として一般的であるコンドームは破損や脱落のリスクの高さも踏まえれば、確実な方法とは言えない。1回のセックスでも妊娠しうるし、性暴力にも絶対に合わないとは言い切れない。しかし、女性が避妊についての情報や実際の方法にアクセスしようとすると、「そんなにセックスがしたいのか」とジャッジされ、「恥」のスティグマをつけられる。 【性暴力へのタブー視】 本来であれば、加害者側が行いを責められ、罰せられるべき犯罪行為だ。しかし社会では今も、加害者に対する非難以上に、被害者側が「落ち度はなかったのか」「隙があったのでは」と責められたり、被害にあえば、「キズモノ」のように扱われる。また、被害者側の主張の揚げ足を取るように美人局やハニートラップだったと決めつけることもある。被害を訴えるために語ったことが「性がオープンになりすぎるから」だと批判されることもある。そういった現状から、被害を語ることができず、ひとり黙って生傷を抱えながら必死に生きる人がこの社会にどれだけいるだろうか。本当なら、司法や医療、トラウマ治療など、アクセスできてしかるべきケアは山のようにあるのに。それらにアクセスできることは、人として正当な権利であるはずなのに。被害者の声はひた隠しにされてしまう。 他にも、中絶や同意のコミュニケーション、セックスそのものも含め、上記のように人を苦しめるタブー視は、この社会に数えきれないほど存在している。「それはおかしいよね」と必要な時、必要なことを伝えられること。そうすることで、自分と相手のこころとからだ、人生を守れる社会にしていきたいよね、ということこそが、「性にオープンに」の原点にある問題意識であり、必要性だと私は思っている。