「こういう意味じゃない…」都知事選”ほぼ全裸ポスター”がミスリードする「性教育」
「安心できる領域」は人によって違う
では、どうすればだれもが尊重される「性にオープン」な社会は実現できるのだろうか? そこで大切なのが、「バウンダリー(境界線)」の視点だ。 「いやだな」「大丈夫!」と思う境界線は、人それぞれ異なる。相手や内容、その日の気分、体調によっても変わる。まずは、その気持ちを自分で認識してみることがとても大切だ。でも、私たちは日常的に、周囲の目を気にし、自分のバウンダリーとは異なる「忖度」を求められることも多く、この自分自身のバウンダリーを押し殺してしまいがちだ。最初は自分のバウンダリーを表に出すのは難しいかもしれないが、まずは感じてみることからスタートする。そのうえで相手と向き合う。そうすると、相手にも相手のバウンダリーがあって、お互いが安心できるところでコミュニケーションを取り合えるようになっていく。 それは「今日どこで会う?」「ちょっと疲れてるから静かな場所のほうがいいかな」からはじまって、「なに食べる?」「今日は帰る? 一緒にいる?」、と続いていく。そういった会話を重ねていくと、少しずつ互いに安全・安心な領域に近づくようになる。それは性的な話も同じだ。ただ性的な話の場合、そこに先ほど挙げたようなタブー視があると、どちらかが我慢することになったり、ちゃんと「イヤ」とか「これがいい」とか、伝えにくくなってしまう。こういったことから「性をオープンに」が大切になってくるのだ。 話が長くなったが、ここまでくるとだんだん、「性をオープンに」というのは、「いつでもどこでもなんでもかんでも赤裸々にすべて話そう」ということではないのが、じんわりとでもご理解いただけたのではないだろうか。「性をオープンに」というのは、性に対しても、「いやだな」も含めて、自分と相手の気持ちを尊重して向き合えるようになろうよ、ということだ。だから私が包括的性教育を実践するときも必ず、「少しでもしんどいな、イヤだなと思ったら教室を出て休んでね」「話したくないことは話さなくていいよ」と伝えて、みんなにとって安心安全な環境をみんなでつくることを何より大切にしている。「性にオープン、なんでもオッケー!」とはまさに真逆の話なのだ。 他にも例えば活動をしていると「子どもに性教育したいけど、赤裸々な質問をされたら不安」という質問をよくいただく。これもバウンダリーで考えるとわかりやすい。子どもに質問されても言いたくなければ、「これは私の大切な話だから、今は話したくないよ」「こうやって、いやだと感じたことは言わなくてもいい、自分を守っていいんだよ」と伝えるいい機会になるかも、とお伝えしている。 「性にオープンに」とは一方的で暴力的なものでは決してない。むしろそういった暴力性のあるものを受けずに済むように、できればお互いが幸せな時間を過ごせるように、真摯な対話を可能にしてくれる姿勢のことなのではないだろうか。