《ブラジル記者コラム》南米で「戦争屋」と呼ばれた男=軍事独裁政権を支持したキッシンジャー
1976年2月、プラナルト宮殿で行われたキッシンジャー、ガイゼル、その他のブラジル当局との会談で、ブラジル大統領は民主化プロセスを迅速に実行することはできないと述べた。 するとキッシンジャーは「(そのことで)米国から圧力を受けることはない」と応じた》 つまり、ブラジル内の共産主義勢力を抑圧するためには人権尊重は必要なく、超法規的な処置(処刑)で対処されるべきであり、米国から軍事政権を民政移管すべきだと圧力を受けることはないというお墨付きをキッシンジャーは与えている。 同G1サイト記事は『キッシンジャーとブラジル』という著書のあるゼトゥリオ・バルガス財団国際関係教授で米国プリンストン大学客員研究員のマティアス・スペクター氏のコメントとして、《「1964年にブラジルで軍事クーデターが起こったとき、南米で唯一の独裁国家はパラグアイでした。10年後の1974年、独裁国家ではない国はコロンビアとベネズエラの2カ国だけだった。キッシンジャーの時代は、民主的な南米から独裁的な南米への変革と一致している》と紹介している。
国境を越えて左派弾圧したコンドル作戦
これらの動きの極め付きがコンドル作戦だ。2日付オウトラス・パラボラスサイト《ブラジル、アメリカ、「西半球」(2)》(6)の中で、ジャーナリストのジョセ・ルイス・フィオーリ氏は《彼(キッシンジャー)の代表作である『世界政治におけるアメリカの戦略』が1942年に出版されてから30年が経過していたが、キッシンジャーは依然として、この地域に別の「半球の大国」が出現することを容認できないと考えていた。1971年にボリビア、1973年にウルグアイとチリ、1976年にアルゼンチンの選挙で選ばれた政府を転覆させた暴力的な軍事クーデターを支持したのはこのためである。また、アルゼンチン、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイの軍隊の情報機関を統合し、これらの国の政治的野党の人物を誘拐、拷問、殺害したコンドル作戦にも手を貸したという紛れもない証拠がある》と書く。