ドーピングが悪だとは言い切れない タバコがなくならないのと同じ【ドーピング問題を考える/バズーカ岡田】
実体験を通じて警鐘を鳴らす人が今はいない
――前回、ドーピングをやってはいけない理由についてのお話しを、スポーツ倫理の観点から伺いました。ただ、それでも現実は、ドーピングがなかなかなくなりません。 五味原領が繰り上げで世界一に IFBB世界選手権でドーピング違反発覚 「4つの理由をお話ししましたが、実は全て、反証可能なんですよ。『不正』は、そもそもドーピングが禁止ではないルールの競技になれば、不正ではなくなるわけですよね。『Enhanced Games(エンハンスド競技大会)』というドーピングを認める大会を、アメリカの超有名起業家を中心に開催する動きがあると聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。『歪曲化』に関しては、もともとスポーツは、『より速く、より高く、より強く』というものを良しとしている世界です。薬を使っているとはいえ、それを更新していこうとすることは、果たしてスポーツの歪曲化なのか?という議論があります。 『非自然性』に関しては、道具を使って行なうスポーツは自然ではないだろうという声が出るでしょう。『有害性』も、大人になった人間がリスクを承知で薬を使うのは何がいけないのか、と。タバコは体に有害であるのはわかりきっているのに、喫煙は許されていますよね。人間の自由意志に基づき、リスクを承知の上であれば悪ではないだろうということです。もっとも、体に害が及んだら国民皆保険制度に乗っかって税金を使って診療を受けるでしょうから、それはどうなんだという問題もありますが」 ――やはり、ドーピングが100%悪だとは、誰も言い切れない。 「だからこそこの問題は、永遠に残り続けるのではないかと思います。有害だとわかりきっているタバコがなくなることはない、それと同じです。『ドーピングはやってはいけないことなのか』という議論をすると、結局のところ、『ボディビルという競技におけるルールで禁止されているから』としか言えないのが現実なわけです。 しかし現代ではまた別の見方もできます。薬を使っていることを公表せずにすごい体を見せて耳目を集め、薬を使わない人にトレーニングを教えたり、広告収入や物販などで収入を得たりすることも可能なSNS社会です。アテンションエコノミーと言われますが、巨大な筋肉でかなり大きなアテンションが得られるわけですから、これは倫理的にいかがなものでしょうか」 ――一筋縄でいかない問題だというのが、よくわかりました。 「私はドーピングを容認しませんが、より速く、より高く、より強く、それを求め続けるのはホモサピエンスの本質なんです。その好奇心を持つことで、いろいろなことを知ることができ、能力を高めることができる。さらに言えば、それによって生存確率を高めることもできる。こうして好奇心の強い個体が生き残ってきたため、遺伝子レベルでわれわれはそれを求めるわけです。スポーツもその意味では同じことで、好奇心という強烈な原動力が根底にあるから、スポーツとドーピングは切っても切り離せない問題としてあり続けるのだと思います」 ――われわれメディアとしてもドーピングを容認はできませんが、一方で使ったらどうなるのかはやはり気になってしまいます。 「もちろん私は薬を使っていないので、どうなるかの実体験はありません。ですが、『薬を使ったらこういう効果がある』と記された資料も存在します。ただ、こういうものを世に出してしまうと社会的にドーピングを勧めることになってしまう可能性がありますし、この分野の研究が多くはないのは、そういう理由です。ただ一つ言えるのは、ボディビルの競技力が向上するのは間違いないのでしょう」 ――そういう人たちが、勧めていってしまう。 「おそらくですが、ドーピングを勧める人というのは生き残っている、あるいは現時点では活動できなくなるほどの害を被っていない人であるはずです。健康被害が出た末の顛末を、自分の体を通して経験はしていないから、人に勧める。生存者バイアスです。この構造が続いているのではないでしょうか。実体験を通してドーピング問題に対して警鐘を鳴らす人が今のところいないのは、ある意味で、まずい流れなのではないかと思います」 (続く)