追悼。ミスター中日、高木守道氏は「10・8決戦」2か月前”ウザイ記者”に言った「3年優勝できなかった俺から辞める」
あの日、高木守道さんの膝は小刻みに震えていた。 1994年10月8日、ナゴヤ球場。130試合目の勝ち負けで優勝が決まり、長嶋茂雄監督が「国民的行事」と呼んだ伝説の「10・8決戦」である。 7回から起用された桑田真澄がマウンド上で両手を突き上げて、歓喜の胴上げが終わった後……ナゴヤ球場の一塁側ベンチの一番端に高木さんは座っていた。 「刀折れ、矢が尽きた……」 絞り出した第一声がそれだった。 誰よりも負けず嫌いな人。震えた膝は、胸に秘めた悔しさの表れだったのか。 名二塁手として知られ、21年間の現役生活で、通算2274安打、236本塁打、813打点、369盗塁の数字を残したミスタードラゴンズ、高木守道さんが亡くなった。78歳。急な悲報。5日前まで、親友の板東英二さんの番組に出演していたという。 最後に逢ったのは、2年前に東京ドームで催された名球会のイベントだった。変わらぬ体型で、バックトスを披露し、打席ではファウルで粘った。「相変わらず元気ですね」と声をかけると「おお久しぶりやね。もう年よ」とくしゃくしゃの笑顔。お体を悪くしたとも聞いたことのない人だった。突然の訃報が信じられない。 スポーツ新聞の記者をしていた若かりし頃、1992年の高木監督就任から3年間、番記者として追いかけた。監督3年目の1994年は激動の年だった。中日と巨人とのゲーム差が大きく開き、夏には優勝の目は薄くなっていた。筆者は、その3年前に星野仙一氏の監督退任の際に”特オチ”をしていた苦い経験があったため、進退問題から目を離さず取材を続けていた。球団が「高木解任」に動いているというニュースをつかみ、他社に先駆けて8月に「高木解任、次期監督に星野復帰」と書いた。人望のある高木さんには慕うコーチが集まっていた。谷木恭平さんという、現役時代に高木さんと1、2番コンビを組み、「燃えよ!ドラゴンズ」の歌詞にも出てくる谷木外野守備走塁コーチに遠征先のベンチ裏に引き込まれて羽交い絞めにされた。