本当の自分なんて、ない。東洋哲学に学ぶ「自分らしさ」との新しい向き合い方
「自分らしさ」も悪じゃない。ゆらぎ続ける自分を肯定して
── 自分が「ない」状態こそ、最高。東洋哲学から得られるのはそういった気づきだと思うのですが、現代では「自分らしさ」が求められるシーンも多々ありますよね。 「自分らしさ」が大事な局面も、もちろんあると思うんです。例えば、自分の特性を完全に無視して職業を選択してしまうと、かなり精神的に辛くなってしまいますよね。先行きが不透明な中でも最善の選択肢を取るために、とりあえず自分はこういう人間だ、と決めて進まなきゃいけない時もある。だから、「自分らしさ」を完全に捨てる必要もないと思うんです。 でも逆に、自分が信じる「自分らしさ」が足枷になってしまうこともあります。例えば最近は、いろいろな性格診断が流行っていますよね。「あなたはこんな人間です」と結果の方から「自分らしさ」を提示してくれる性格診断には、これまで見せてはいけないと思っていた自分の内面が肯定される安心感や気持ちよさももちろんあると思うんです。でも診断結果にとらわれるあまり、そこからはみ出た自分の個性を受けいれられなくなってくると、逆にそれらは自分を苦しめるものになってしまう。自分が考える「自分らしさ」も結局は幻である、ということは頭の片隅に持っておけると良いのかなと思います。
── ひとつの枠組みに自分を固定しきらずに、常にゆらぎ続けるイメージを持つ。これは社会全体において大切な考え方に感じますね。 龍樹の教えに「不一不異」という言葉があるんです。「同じじゃないけど違うわけでもない」という意味なんですけど。これは現代社会にも必要な考え方かもしれません。今、これまでのカテゴリーだと正確に存在を定義できないものが実はたくさんあるよね、ということで、カテゴリーの分け方が見直されたり、新たなカテゴリーが誕生したりしています。それは、より多くの人が生きやすい社会を築くために、すごく大切なことだと思うんです。その一方で、カテゴライズしすぎることでかえって、現状のどのカテゴリーにもはまらないものが存在する余白がなくなってしまうということは、多々あるように感じています。 みんな同じではないけど、違うわけでもない。人間だけでなく、動植物も石も宇宙も、全部含めてみんながひとつながりで生きているってことを実感できる人が増えたら、対立していたもの同士がもう少し対話できるようになるのかなと思っています。東洋哲学をなるべく多くの人に知ってもらうことでそんな世界を目指せたらと、それが僕の願いです。