「名作が古典になっていく、過渡期にある」 あの戦争が遠くなるなかで、『はだしのゲン』を読む #戦争の記憶
トラウマを忌避する、若者たちの感受性の変化 藤田直哉(文芸評論家)
初めて読んだのは小学4年生か5年生で、学校の図書館にあったんですが、絵が怖くて読めないという感覚はなかったんですよね。 30年ぶりに読んでみて、いいなと思ったのは、原爆が投下されたあとの具体的な描写です。防火水槽の中で子どもを抱きかかえている死体、骸骨がそこらじゅうに転がっているさま、それが当たり前である世界をかいくぐってきた人だけが持てるリアリティーを強く感じました。病気が治ると信じて亡くなった人の頭蓋骨を粉にして飲むとか、想像では描けない。 大学で教えているので、学生に社会的なテーマを扱った作品を見せることがあるのですが、あまりに悲惨な現実や、社会の負の側面を描いたものに対して、トラウマになるから見たくないという反応がくることはありますね。深刻な物事に対して、認識や思考にフィルタリングがあるように感じることもあります。アニメーション作品でも、身体が損壊する描写が無理という声もありました。『はだしのゲン』が読まれなくなっているとしたら、そういう感受性の変化があるかもしれません。 ただ、『はだしのゲン』の絵柄は、記号的に処理されている部分も多く、抽象化されているから、直接的なグロテスクさから遠ざかっているとも思うんですね。視線の誘導もうまいからテンポよく読める。単純に漫画としてめちゃくちゃ面白い。
ゲンは絶望する人々を励ますヒーロー
この作品に出てくるキャラクターは、よく笑うしよく泣きます。親子きょうだいがほっぺたをベロベロとなめあったりじゃれあったりするシーンが多く、喜びや愛情がダイレクトに示される。悲惨な状況だけど、感情をむき出しにして生きている。それが生き生きとしたドラマとしての面白さを生んでいると思います。 一方で、ゲンたち一家を追い出そうとするお婆さんとか、被爆した義理の弟が死んで喜ぶおばさんとか、悪役ははっきり悪役として描かれます。そうやって読者の怒りをかき立てて、ゲンがぶん殴ったり仕返ししたりすると、カタルシスが生まれる構図になっている。この作品の中で、ゲンをはじめ子どもたちは社会から逸脱する存在で、でもそっちのほうが正しいかもしれないという説得力があるんです。 ゲンの一番の魅力は正義心ですよね。被爆による全身やけどで包帯でぐるぐる巻きにされ、からだじゅうにうじがわいて苦しむ人を、「かわいそうじゃないか」と一生懸命世話してやる。体が弱り、死ぬことばかり考える女の子に「ぜったいに死なしはせんぞ」と励ます。こんなことが許されてたまるかとストレートに怒る。 当時はまだ原爆症に苦しむ人もいたでしょうから、こういうヒーローがいることが希望になったと思うんです。『はだしのゲン』という作品が世の中に広がって共感を生み、人々の考えを変えていけば、世界が変わるかもしれないという希望が出てくる。 それだけに、ゲンの憎しみの対象は、原爆を落とした原因としての天皇の戦争責任とアメリカの二つにシンプルに集約されます。現実はもっと複雑なので、その単純化は弱点ではあると思いますが、そこをフェアに描いたらこのストレートさや痛快さもなくなるのかもしれません。