「名作が古典になっていく、過渡期にある」 あの戦争が遠くなるなかで、『はだしのゲン』を読む #戦争の記憶
現実に起こったら、「ページを閉じる」ことはできない
漫画では、学校へ通いたい、屋根のある場所で寝たいといったささやかな願いが、戦争と軍国主義によって阻まれていく過程が丁寧に描かれます。ゲンの父親は、非国民と言われてひどいめにあっても戦争に反対したのに、原爆で死んでしまいます。個人がどういう意思を持っていても、そんなの頓着しないのが戦争で、否応なく巻き込まれる。しかも、戦争が終わっても、終わらないんです。ゲンは優しさがあっても、暴力と暴言によってしか人と関われないし、弟分の隆太は学校に通えず、漢字が読めないまま。失ったものはやっぱり戻らない。 戦争や原爆は、目を背けたい歴史かもしれません。本であればページを閉じることができるけれど、現実に起こってしまったら、目を背ける先すらなくなってしまう。そうなるのが何より怖い。 いつ起こるかわからない次の戦争を止めるには、「戦争は容認しない」と声を上げ続けるしかない。自分の言葉を見つけるためにも、『はだしのゲン』を読んだほうがいいよって思います。
古典になりきっていない、過渡期の歴史漫画 荻野謙太郎(漫画編集者)
私は福岡県出身なのですが、2発目の原爆は長崎ではなく小倉(現北九州市)に落とされる可能性があったと言われています。原爆はひとごとではないという感覚はありました。 私が小学生の頃は、学級文庫に必ずと言っていいほど『はだしのゲン』が置いてあって、クラスメートはみんな読んでいましたね。学校で唯一、おおっぴらに読める漫画でしたから。 今の小学生は、『はだしのゲン』を自主的に読む環境にないと思います。昔と違って学級文庫にも図書館にも漫画やライトノベルがいっぱいあり、あえて選ぶ理由が薄い。 一番のハードルは絵柄です。出版物の絵柄は、時代によってどんどん変わります。私たちが子どもの頃に絵本や児童書で見た絵柄と、今の子どもたちが見ている絵柄は全然違う。で、子どもたちは、「これは自分たちに向けられた作品だ」という判定を、絵柄でするんですね。その点で、『はだしのゲン』が今の子どもたちの興味を引くのはなかなか難しいと思います。